日本初の(高速)機動戦車で、機械化騎兵の主力装備としてまた戦車連隊の補助戦車として長期間使われた車輌です。日本戦車の中で最も使用期間が長く、生産台数も最も多かったです。技術的にも平凡な設計で、それだけに信頼性が高く、小型軽量軽快で使いやすい戦車でした。日本戦車は本車で初めて実用的になったと言えます。
日本では満州事変を境に機械化部隊への関心が高まり、高速機動車輌の開発が始まりました。最大速度を見れば、九二式重装甲車は40㌔/時、九四式六輪トラックは60㌔/時、九○式機動野砲を牽引する4㌧牽引車は40㌔/時といった具合です。これに対して八九式中戦車は25㌔/時で、歩兵の支援ならともかくトラック部隊との行動は無理で、しかも騎兵の求める機動戦車の要求には合致しませんでした。
「本車は軍の機械化の中核として、六輪トラックとともに行動できることを前提として開発された」と一般には言われていますが、これは日本だけの発想ではありません。アメリカではクリスティーの設計した装輪装軌併用式の超高速戦車(時速80㌔!)が採用され、ソ連はそれをライセンス生産してBT戦車を作りました。発想はこれらに学びました。
メカニズムはイギリスの6㌧戦車に学びました。これは当時の世界的ベストセラーで、日本でも昭和5年に輸入し機構を研究しました。操縦席を右側に設け、砲塔を車体中心線から左側にオフセットさせる方式は6㌧戦車をそのままコピーしました。
昭和8年6月に設計開始、試作は三菱が担当しました。翌年6月には試作第一号車が完成、歩兵学校、騎兵学校、戦車第二連隊、混成第一旅団で実用試験が行なわれました。試験の結果を受けて軽量化を目的とした改修試作車が3輌作られ、昭和10年末に九五式軽戦車として制式化されました。
エンジンには八九式中戦車に搭載した空冷直列六気筒ディーゼル120馬力が車体後部右側に配置されました。戦闘室と機関室の間にはハッチがあり、燃料タンクとバッテリーの上を這っていけば車体後部の扉から出られるように設計されていました。本車を捕獲した米軍は「日本戦車には珍しく脱出口がついている」と報告書に書いていますが、これはエンジン点検通路です。満州ではこのスペースに火鉢などを置いていました。
足回りは九四式軽装甲車の技術が流用されました。転輪は二個一組で片側二組で構成されました。懸架装置はシザーズ方式、シーソー方式と呼ばれる横向きコイルスプリングを使ったものです。軽量で履帯の接地も確実でしたが、震動がなかなか減衰せず車体が前後に動揺する傾向がありました。操向装置は単純なクラッチブレーキ方式が採用されました。
武装として九四式(または九八式)37㍉戦車砲一門と九七式車載重機関銃二挺を搭載しています。砲弾には榴弾と徹甲弾があり、収容弾数は120発です。後に37㍉砲では威力不足と言われますが、制式化当時は妥当な選択でした。イギリスは2ポンド砲(口径40㍉)、アメリカは37㍉、ドイツは20㍉ないし37㍉を採用していました。九四式戦車砲は初速600㍍/秒、射距離300㍍で45㍉の鉄板を貫徹できました。九八式はその薬室拡大版で、初速は700㍍/秒になりました。
ややこしいことに、九四式37㍉砲という速射砲があります。これは歩兵の装備する対戦車砲で、同じ年式なので九四式戦車砲と混同されています。弾丸(榴弾、徹甲弾)は同じですが、薬莢が違います。歩兵砲は薬莢の長さが166㍉、戦車砲は133㍉です。つまり戦車砲の装薬(発射薬)量は少なく、低初速、低威力でした。戦車砲は従来の歩兵砲の延長で敵の機関銃や歩兵砲といった重火器撲滅を意識した設計でした。
機関銃は車体前面と砲塔右後方に各一挺搭載されました。砲塔は一人用なので、車長が主砲と機関銃の両方を操作しました。陣地突破後は砲塔を180度回転させて、機関銃でなぎ払いました。砲塔は手動旋回ですが、ギアによる旋回ではなく、砲手(車長)が主砲に肩を当て、肩の力で旋回させる方式です。この方式は砲が小型ならば、訓練しだいでは目標によく追随して旋回できたと言われています。なお砲塔を旋回させなくても、主砲は左右10度くらいなら動かすことができました。
日本初の機動戦車は装甲に最大の弱点がありました。列国は機動戦車を重量15㌧内外で実現しようとしました。ところが日本は6㌧戦車をベースに列国の半分の重量を狙いました。ここに無理が生じました。機動(主力)戦車であれば、中距離からの37㍉対戦車砲に抗堪できなければなりません。そのためには装甲が25㍉から40㍉が必要です。しかし重量7㌧ではそれは無理で、結局7.7㍉徹甲弾、つまり機関銃に抗堪できる程度の装甲とされました。ちなみに鋼板に味噌を塗り、電気炉で熱し、菜種油で冷却して炭素Cを吸着させる表面硬化装甲板の技術は本車で初めて確立されました。
車体形状にも問題がありました。軽戦車の車体に中戦車の空冷ディーゼルを搭載したため、機関室が大きく高くなり、側面の暴露面積が大きかったのです。イギリスの6㌧戦車が高さを抑えるため、水平対向エンジンを採用したのと対照的です。被弾した場合の最大の弱点は砲塔下部の張り出し部でした。試作車にはなかったのですが、弾薬の収納スペース確保のために量産型以降から取り入れられました。
常に攻撃部隊の先頭にたち、高速をもって準備不十分な敵陣を蹂躙したり、側背に廻り込み奇襲攻撃をかけるような戦闘ばかりであれば特に問題はありませんでした。支那事変の緒戦がその典型です。しかし敵が対戦車砲で待ち伏せしていたり、戦車を繰り出してくるとお手上げでした。ノモンハン戦では35輌が参加し、11輌が損害を受けています。
昭和11年から量産が開始され、昭和18年までの8年間に三菱重工で1121輌の他、東京自動車、神戸製鋼所、小倉造兵廠などで合計2375輌が生産されました。後続車輌の開発が続けられ、昭和14年には九八式軽戦車が制式化され113輌が生産されました。さらに二式軽戦車も制式化されましたが、中国戦線での本車の使用実績は良好で、交代のタイミングがつかめないまま生産が続けられました。昭和18年に生産中止となりましたが、太平洋戦争中期以降は中戦車さえ無力化しており、軽戦車の時代は終わっていたのです。アメリカだけは軽戦車を終戦まで維持していましたが、これは主砲の口径が小さい点を除けば、実質的には中戦車でした。
日本が昭和17年まで軽戦車を大量に生産していたのは、その経済性が最も大きな理由でした。九七式中戦車は約15万円ですが、九五式なら約7万円でした(現在価値は約千倍)。昭和14年と昭和17年には戦車連隊だけでそれぞれ6個新設されました。これ以外に捜索連隊、師団戦車隊、独立戦車中隊などの需要がありました。安く早く需要を満たすには軽戦車が最適でした。
戦術上も軽戦車で十分でした。中国戦線では敵戦車に遭遇することはなく、長距離追撃戦が主体でした。太平洋戦争緒戦のマレー作戦では約1千キロに及ぶ追撃戦でも故障車は少なかったのです。信頼性と機動力だけが取柄のこの戦車には、軽装備の敵を全力で追いかける戦闘には最適でした。
諸元:重量7.4㌧、全長4.3㍍、全幅2.7㍍、全高2.3㍍、装甲12㍉、エンジン 空冷ディーゼル120馬力、最大速度40㌔/時、乗員3、武装 九四式または九八式37㍉戦車砲一門および九七式車載重機二挺
コメント
10月17日
17:43
1: 恋刀
U96師へ
ふたたび、失礼致します。
U96師の文章はキラキラ光ってみえて、
とても綺麗で御座居ます。
僕もこれ程躍動感のある文章を打ち込める様になりたいです。
いつも 有り難う御座居ます
失礼致しました。
10月17日
19:07
2: U96
>恋刀さん
ありがとうございます。
私はすぐ増長するので、少し辛口の評価くらいがよいかと。
10月17日
19:42
3: 退会済ユーザー
「機械化騎兵」などと云う単語を見掛けたら
その後の文章にある車両とは全然別物の
ロボットアニメに登場するようなデザインを
想像してしまう~~~~~・・
10月17日
21:01
4: RSC
まだ戦車というか騎兵そのものだったのですね。
10月17日
21:43
5: U96
>倶利伽羅いちろうさん
戦車の出現で騎兵は不要となる。失業する騎兵の不満を抑えるためには騎兵出身者を戦車乗員にする必要がありました。
10月17日
21:45
6: U96
>RSCさん
あまりに装甲を薄くし過ぎて、敵機関銃に弱いのも騎兵そのものでした。
10月17日
23:58
7: k-papa
当時のディゼルエンジンは貴重なので、日本とソ連ぐらいだったような。
航空機と燃料の取り争いがなくなるので、ドイツも一生懸命開発したのですが・・・。
10月18日
06:16
8: U96
k-papaさん
たしかパンターにはディーゼルエンジンが搭載される予定だったのでしたね。