メラン将軍も戦死者のひとりでした。戦死したメラン将軍の失策が作戦失敗の原因である、とペリシェ総司令官はナポレオン三世に報告したが、少なくとも最後の瞬間に計画を変更したという点で、ペリシェ将軍自身にも責任がありました。英国軍総司令官ラグランも作戦失敗の主たる責任はペリシェにあると考えていました。しかし、ラグラン自身も英国軍に不必要に重大な犠牲を強いたことの罪悪感に苛まれていました。突撃作戦が失敗に終わった後、ラグランは重症の抑鬱状態となり、6月26日には病床に伏せてしまいました。同行の医師の一人によれば、病状は噂されていたようなコレラではなく、「急性の精神的疾患だった。まず重い鬱症状が表れ、それに続いて心臓の機能が急激に低下した」。ラグラン総司令官が死亡したのは、1855年6月28日でした。
マラホフ、レダンの両要塞に対する突撃作戦が失敗に終わった後、攻囲戦は塹壕掘りと形式的な砲撃という単調な日常に復帰していました。再度の突撃作戦が敢行される気配はまったくありませんでした。塹壕戦が9カ月に及んだ今、この膠着状態にうんざりし、それが永久に続くのではないかという悲観的な気分が敵味方の双方に漂い始めていました。疲労感から来る士気の低下が目立ちました。ロシア軍が6月以降さらに防備を固めていることは明らかでした。連合軍の陣営では、セヴァストポリ周辺の高地で二度目の冬を過ごす事態を全員が恐れていました。
塹壕戦を戦う兵士が精神的に消耗したのは、多くの死を直接に目撃したからだけではありませんでした。セヴァストポリ攻防戦を通じて人間の肉体が受けた損傷は、後に第一次世界大戦によって更新されるまで、史上最悪の激しさでした。大砲と小銃の技術革新によって、クリミア戦争の兵士たちはナポレオン戦争やアルジェリア征服戦争の時代に比べて格段に深刻な損傷を強いられることとなりました。たとえば、新式小銃に使われる細長い円錐形の銃弾は昔の球形弾に比べてはるかに強力で重かったのです。銃弾は兵士の身体に命中すれば骨を砕いて貫通しました。昔の球形の軽い弾丸は身体の中で針路を変えたので、骨を砕くことはなかったのです。攻囲戦の開戦当初、ロシア軍は重さ50グラムの円錐形銃弾を使っていたが、1855年の春以降は長さも重さもさらに大きな銃弾を採用しました。新しい銃弾は長さ5センチ、重さは英仏軍の銃弾の二倍でした。新式の銃弾が人体の柔らかい部分に命中すると、大きく開いた傷が残りました。傷はいずれ塞がるが、銃弾が骨にあたった場合には、骨の損傷は広い範囲に及びました。もし腕か足に被弾すれば、ほぼ確実に切断手術が必要となりました。
ロシア軍がこうむった損害は連合軍を大きく上回っていました。1855年7月現在、セヴァストポリ攻防戦におけるロシア軍の死傷者数の累計は連合軍の二倍以上にあたる65000人に達していました。これは戦病死者を含まない数字です。加えて、連合軍による6月の砲撃で兵士と民間人を合わせて数千人が負傷し、すでに過密状態となっていた病院に担ぎ込まれました(6月17日と18日の砲撃だけで4000人の死傷者が出た)。
(つづく)
コメント
08月06日
21:18
1: ディジー@「本好きの下剋上」応援中
兵器の近代化が与えた影響を知りたかったのです。
司令官が鬱で亡くなる位 凄いのですね!
ロシアは良く しのいでいますが被害が大きい。冬までに何とかなるのか?
08月06日
21:59
2: U96
>ディジー@「本好きの下克上」応援中さん
実は7月にはロシア側から脱走兵が続出しております。民間人もセヴァストポリを脱出し始めています。8月になるとアレクサンドル二世は最後の攻撃を画策し始めます。
08月06日
22:01
3: RSC
当時の精神疾患へのケアは、休息と酒くらいのものでしょうか・・・あるいはもっと危険なものが既に・・・。
08月07日
05:20
4: U96
>RSCさん
こんなものが出てきました。
http://karapaia.com/archives/52177629.html