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U96さんの日記

(Web全体に公開)

タグ : クリミア戦争

2018年
07月30日
20:36

クリミア戦争史(その28)

 ロシア軍も連合軍側が砲撃準備に入ったことを察知していました。英仏軍の脱走兵からだけでなく、目の前の稜保で、毎日新たに大砲が運び込まれる様子を直接目視できたからです。砲撃開始の予定時刻が数時間後に迫った復活祭の日曜日の夜、セヴァストポリ市内の全教会とすべての要塞で祈祷会が開かれ、司祭たちがイコンを掲げて兵士たちの間を練り歩きました。そのイコンの中には皇帝の命令で運ばれてきた「ラドネジの聖セルギィ」のイコンも含まれていました。それはロマノフ朝の初期の皇帝たちが遠征の際に携行して戦った神聖なイコンでした。1812年のナポレオン戦争でもモスクワ防衛軍がこのイコンを掲げて戦いました。居合わせた全員がまもなくセヴァストポリの運命が決まる。この感覚は、攻撃側と防御側の双方がともに復活祭を祝うという事実によっていっそう強まっていました。この年は暦の関係で、ロシア正教とローマカトリックがたまたま同じ日に復活祭を祝うことになりました。やがて、膨大な数の群衆が街路に出て、各人が一本ずつ蝋燭を持ち、時々、深く頭を下げて十字を切りました。夜明けとともに英仏軍の砲撃が始まりました。人々はようやく解散しましたが、恐怖に駆られた人々は混乱して叫び声を上げながら、逃げ場を求めて街路を駆け回りました。比較的安全と思われるニコライ堡塁を目指して多くの市民が殺到しました。
 市内最大の病院に転用されていた貴族会館ではピロゴーフと同僚の医師たちが次から次へと四肢の切断手術をこなしていたが、その最中に手術室の壁が砲弾の直撃で崩壊しました。無差別砲撃を受けて死傷した市民の中には多数の女性と子供が含まれていました。
 砲撃は10日間止むことなく続きました。ロシア軍によれば、その間にセヴァストポリに撃ち込まれた砲弾は16万発に達したと言われます。兵士と市民を合わせて4712人が死傷しました。連合軍側も無傷ではありませんでした。ロシア軍は大砲409門と臼砲57門で反撃し、10日間に88751発の砲弾を敵陣地に撃ち込んだのです。しかし反撃のための十分な弾薬がロシア軍には不足していました。ロシア軍砲兵部隊の指揮官たちは敵の砲撃二発に対して反撃は一発とするよう命令されていました。
 マメロン稜堡と第五要塞はほぼ完全に破壊されました。両要塞への連合軍の突入を予測して、ロシア軍は地下掩蔽壕に潜んで連合軍の突入部隊を待ち伏せする態勢を整えていました。ところが、連合軍の突入部隊はやって来なかったのです。
(つづく)

コメント

2018年
07月30日
21:51

1: RSC

ロシアはとにかくよく大砲を撃ち込まれる国ですね・・・。きちんとお返しをするのも同じですが。

2018年
07月30日
21:59

同じキリスト教でも復活祭の日にちが違うのですね!

「戦闘は火力」とはアニメ界でも有名な言葉ですが、破壊に大金をかけるのはむなしいです。
 その資金と労力をアニメを創るとか漫画を描くとか 建設的に使えないものでしょうか?

2018年
07月31日
06:17

3: U96

>RSCさん
はい。ロシア人も学習して砲兵は戦場の女王と言うようになりました。

2018年
07月31日
06:27

4: U96

>ディジー@「本好きの下剋上」応援中さん
はい。ロシア正教ではクリスマスは1月7日です。

「戦闘は火力」は実は日本の「歩兵操典」にも書かれていました。しかし弾不足なので、「幾何学的陣形の勝利」とかよく分からないことで説明しています。

文明国が武力で野蛮から救う、こういう思想が西洋にあったので、帝国主義は生まれたのです。