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U96さんの日記

(Web全体に公開)

タグ : クリミア戦争

2018年
07月15日
14:54

クリミア戦争史(その23)

 サルデーニャの首相カミッロ・カヴールの考えでは、このクリミア派兵は英仏両国との同盟関係を強化し、サルデーニャ王国の主導でイタリア統一を促進するための好機でした。しかしサルデーニャ軍のクリミア戦争参入は危険な賭けでもあったのです。英仏両国は公式にはイタリア独立への支持を表明していなかったのです。英仏両国にしてみれば、オーストリアとの関係を危険にさらす余裕はなかったのです(フランスに至っては、12月22日にオーストリアと秘密協定を結び、墺仏両国が対露戦争をめぐって同盟関係にある間はイタリアの現状を維持することで合意していた)。しかし、サルデーニャが有益な役割を果たし得ることを英仏両国に証明して見せることは、同国が国際的に発言権を得るために是非とも必要でした。オーストリアがクリミア戦争に兵力を提供する見込みがない以上、サルデーニャのクリミア派兵は、オーストリアよりもサルデーニャの方が役に立つことを英仏両国に証明する絶好の機会でした。実際、サルデーニャ兵はクリミア戦線で勇敢に戦いました。
 ロシア対ヨーロッパの全面戦争という構想はポーランド人にも歓迎されました。アダム・チャルトリスキ公を中心とするパリのオテル・ランベール派が英仏両政府の支援を得て結成した1500人のポーランド軍団は、ウワディスワフ・ザモイスキを司令官とし、亡命ポーランド人、ロシア皇帝軍からの脱走兵、逃亡捕虜などで構成されていました。ポーランド軍団は英仏軍から武器の供与を受けていたが、クリミア半島やカフカスでロシア軍と戦う際には「スルタンのコサック部隊」を名乗っていました。キンブルンで英仏連合軍の捕虜となったロシア軍士官の証言によれば、連合軍はキンブルンのロシア監獄を解放した際、解放されたポーランド人捕虜500人に対してポーランド軍団への参加を求め、参加する者には褒章を与え、拒否する者には鞭打ちの刑を与えたのです。ポーランド軍団が実戦に参加したのは1855年以降だが、軍団をめぐる議論は春から際限なく続いていました。英仏両国がポーランド軍団をポーランドの正規軍として認めるかどうかという複雑な問題が絡んでいたからです。正規軍として認めるなら、ポーランドの独立を認めることになり、ポーランド問題を戦争の目的のひとつに加えることになります。結局、この問題の結論は出されませんでした。
 英国がロシアとの戦争を拡大するためには兵力の増強が必要でした。パーマストンは世界各地から傭兵を集めようとしました。「可能なかぎり多数のドイツ人とスイス人を集めよう」とパーマストンは1855年春に宣言しています。もともと、英国のクリミア派遣軍の兵力はフランス軍の半分程度に過ぎませんでした。それは、戦争の目的や戦略の決定に関してフランスが優先的な発言権を持つことを意味していました。英国議会は12月中に急遽「外国人徴用法」を成立させたが、この法律については、外国人に不信を抱く世論の強力な反対がありました。その結果、海外からの傭兵の数を最大1万人に制限する形で法案が修正されました。傭兵の最大グループはドイツ人で、約9300人、大半が下層階級の職人と農業労働者で、およそ半分が軍事訓練または実戦の経験者でした。次に多かったのは約3000人のスイス人でした。傭兵たちは4月に英国に到着し、一人当たり10ポンドの報酬を受け取った後に、イングランド南部オルダーショットで軍事訓練を受けました。そして、1855年11月、スイス人とドイツ人の混成部隊7000人がスクタリに向けて英国を出発しました。しかし、部隊がスクタリに到着した時にはクリミア半島の戦闘はすでに終結していたのです。
(つづく)

コメント

2018年
07月15日
15:21

1: RSC

ナイチンゲールの様な人物がもう一人いて傭兵選抜を仕切っていたら、英国は精強な援軍を送れたかも知れませんね・・・。

2018年
07月15日
17:40

2: U96

>RSCさん
そうですね。ついでながら、パーマストンは最初、国籍を問わず4万人集めるつもりだったようです。質より量になりますよね。

2018年
07月15日
20:55

傭兵と言えばスイス人ですなぁ。

サルデーニアは頑張ってイタリア統一に持って行け田のに、ポーランドを苦難の道に進んでいく。
 世知辛いですのん。

2018年
07月15日
21:10

4: U96

>ディジー@「本好きの下剋上」応援中さん
はい。フランス革命での王党派についたスイス人傭兵の玉砕は有名です。

イタリア統一はジュゼッペ・ガリバルディの出現を待たなければなりませんでしたが、ガリバルディは領土をサルデーニャ国王に献上したのですから、傭兵たちは報われたのですね。わずか5年後のことです。

ポーランドはその内陸部に飛び地のドイツ領(東プロイセン)があったことから問題を複雑化させました。