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U96さんの日記

(Web全体に公開)

タグ : クリミア戦争,アレクサンドル二世

2018年
07月13日
17:06

クリミア戦争史(その21)

 2月に入って、ついに戦局が動き始めました。ニコライ一世が、連合軍の再上陸地点として予測されるエフパトリア港を奪還する攻撃作戦を命じたのです。英仏両国軍が増強部隊をクリミア半島に上陸させ、ペレコフ地峡を奪ってクリミア半島とロシア本土を分断することを恐れての作戦でした。当時、エフパトリア港を占領していたのはオメル・パシャが指揮する約2万人のトルコ兵部隊であり、このトルコ軍を英仏連合艦隊が海上から支援していました。重砲34門を含むエフパトリア港の防衛態勢は万全だったので、エフパトリア地域のロシア軍騎兵部隊司令官ウランゲル中将は攻撃作戦に反対しました。皇帝はウランゲルを罷免し、その副官のステパン・フルリョーフ中将に指揮権を与えました。騎兵隊二四大隊と火砲108門を中心とするフルリョーフ軍19000人は2月17日の未明に攻撃を開始しました。ところが、この時に至って、皇帝の考えに変化が生じました。エフパトリア港を奪還するよりも、連合軍の増援部隊をエフパトリアに上陸させ、ペレコプ地峡に移動する際に側面から攻撃する方が有効であると思い始めたのです。しかし、手遅れでした。フルリョーフ軍の攻撃作戦はすでに始まっており、中止させることはできなかったのです。攻撃は3時間続いただけで、ロシア軍は簡単に撃退され、1500人の戦死者を残して、遮るもののない平野をシンフェロポリの方向に敗走しました。身を隠す場所がなかったために、敗走する途中で多数の兵士が疲労と寒さから命を失ったのです。彼らの凍った死体はステップに放置されました。
 エフパトリア戦の敗北の知らせがサンクトペテルブルクに届いたのは2月24日でした。その時には、ニコライ一世はすでに重症の病人となっていました。皇帝は2月8日にインフルエンザに罹患したが、その後の日常の政務を継続していました。2月16日には小康状態となり、医師たちの助言を無視して、冬用外套も着用せずに零下23度のサンクトペテルブルク市街に出て部隊を閲兵し、翌17日にも外出しました。症状が急激に悪化し、肺炎を引き起こしたのはその晩でした。医師たちが皇帝の胸に聴診器を当てると、両肺にたまった水の音が聞こえました。主治医のマルティン・マント博士は回復の見込みなしと判断しました。24日にエフパトリア戦敗北の知らせを聞いて激しく落胆したニコライ一世は、マント医師の助言に従い、皇太子アレクサンドルを呼んで、皇帝の座を譲りました。新皇帝は父の要請に従ってエフパトリア攻撃の司令官フルリョーフを解任するとともに、総司令官をメンシコフからゴルチャコフに入れ替えました。当時、メンシコフも病人でした。
 ニコライ一世は1855年3月2日に死去しました。ニコライ一世は陸軍の制服姿でペトロパヴロフスク要塞の中央にある大聖堂に埋葬されました。
 ニコライ一世死去の知らせは、その日のうちにパリとロンドンに伝えられました。『タイムズ』は戦争を引き起こしたニコライ一世に神罰が下ったと宣言し、連合軍の勝利は近いと報じました。パリとロンドンの証券取引所では株価が急騰しました。
 しかし、新たに皇帝となったアレクサンドル二世は、父親の政策を変更するつもりはありませんでした。帝位に就くと同時に和平交渉の可能性を否定しました。この段階で和平交渉に入ることはロシアにとって屈辱であり、交渉を通じて和平を受け入れるような国があるとすれば、それは英国以外にないとして、ロシアの「神聖なる大義」と「世界的栄光」を守るために戦い続けることを宣言したのです。ただし、その一方で、「ロシアの名誉と領土の保全」が確保されるならば交渉に応じるという意向を外相のネッセリローゼを通じて表明することも忘れませんでした。アレクサンドル二世はフランス国内の厭戦気分の高まりについて情報を得ており、フランスに対して早期和平の可能性を匂わせば英仏関係に楔を打ち込むことができると計算していました。ネッセリローゼ外相は義理の息子にあたるザクセン公国のパリ駐在公使ゼーバッハ男爵に手紙を送り、「フランスとロシアの間には、戦争を不可避とするような相互憎悪の関係は存在しない」と書きました。ゼーバッハはこの手紙の内容をナポレオン三世に伝えて、こう言いました。「もし皇帝陛下が希望なされば、仏露間の和平は成立するでしょう」
 しかし、1855年の最初の数カ月間、英国は同盟国フランスに対して圧力を強めていました。新首相パーマストンは首相就任以前から対露強硬派の筆頭であり、今や単にセヴァストポリの海軍基地を破壊するにとどまらず、黒海沿岸の全域からロシアの影響力を排除し、さらには、カフカス、ポーランド、フィンランド、バルト海などを戦域としてロシアを攻撃すべく、同盟国を引き込み、ロシア帝国領に対するこの攻撃作戦は1854年に英仏両国とオーストリアが合意した対露四項目要求の範囲を大きく逸脱していました。四項目合意はアバディーン首相の前内閣が慎重に練り上げた限定的な戦争計画でした。しかし、パーマストンはクリミア作戦をヨーロッパと近東地域での対露全面戦争に拡大する決意でした。
 当時の英国政府はパーマストンの野心的な構想に対して懐疑的でした。前にも触れたように、アバディーン首相はヨーロッパ大陸に新たな「三十年戦争」をもたらすものとしてパーマストンの構想に反対でした。しかし、そのパーマストンが首相となり、ロシアが弱体化し、厳しい冬の季節が終わろうとしている今、戦争拡大政策はにわかに可能性を増してきていたのです。
(つづく)

コメント

2018年
07月13日
17:44

良いアイデアは 良くないアイデアを実行した後にえてして思いつくものです。

インフルエンザで動き回るとは迷惑ですな。
特に あの時代は。

皇帝は代わっても 混迷は増すばかりですね。

2018年
07月13日
19:16

2: U96

>ディジー@「本好きの下剋上」応援中さん
ニコライ一世は死の直前、アレクサンドルに「私は常に諸君のために最善を尽くそうとしてきた。しかし、目標を達成することができなかった。意欲はあったが、知識と知性が及ばなかったためである。どうか私を許してほしい」と将兵への言葉を託しております。

・・・当時はウイルスが発見されていなかったので・・・

2018年
07月13日
19:46

3: RSC

英国、いいとこないですね。今度は調子に乗ってしまったのですか・・・。

2018年
07月13日
20:03

4: U96

>RSCさん
パーマストンを首相に選んでしまった時点で、ダメですね。