フランス軍の居住環境は英国軍に比べて相対的に優れていました。フランス軍のテントの方が広かっただけでなく、風への対策も工夫されていました。木の板をめぐらして防風柵とし、あるいは、雪を積み上げて防風壁を作りました。しかも兵士と士官が一緒に寝起きしていました。ザクセン公国の駐ロンドン大使だったフィッツトゥム・フォン・エクシュテットは後年次のように書き残しています。「クリミアの厳しい冬を経験して帰国した何人かの英国士官と話したことがある。彼らは、現地の兵士たちがいかに悲惨な生活を強いられているかは帰国後に新聞で読むまで知らなかったと言って笑った」フランス軍は、様々なタイプの居住施設を臨機応変に開発しました。「もぐら塚」(トーピニェール)と呼ばれる大型住居は地面を一メートルほど掘り下げ、床に石を敷き詰め、木の枝を編んで壁と屋根にしたものでした。数人の兵士の背嚢をほどいて縫い合わせ、地面に立てた杭に縛りつけたものは「小型テント」(タント・アブリ)であり、また、「円錐テント」(タント・コニーク)は帆布地を縫い合わせて屋根とし、その中央を支柱で支える構造で、16人程度を収容することができました。テントの種類を問わず、その内部には調理用の竈が作られ、暖房用としても役立っていました。「我が軍の兵士たちが作る竈は英国軍の羨望の的だった」とルイ・ノワールは回想しています。
しかし、竈の燃料には大量の薪が必要だったので、インケルマン高地の森林は三カ月で消滅してしまいました。英国軍はフランス軍が木を切り倒したことを非難したが、彼らは樹木を資源として利用する方法を知りませんでした。英国兵は何もかも軍から支給されるものと思い込んでいるので、支給が止まればお手上げでした。
フランス軍の中には英国兵に対して一種の軽蔑心を抱く者が少なくなかったのです。彼らは、英国兵には戦場の環境への適応能力が欠けているのではないかと疑っていました。「あの英国兵たちときたら!彼らは間違いなく勇敢な兵士だが、生き残る知恵が不足している」とエルベ大尉は11月24日付の家族宛の手紙に書いています。
「攻囲戦が始まる前から、英国軍は大型のテントを保有していたが、いまだにその立て方が分からないようだ。彼らはテントの周囲に細い溝を掘って雨や風の侵入を防ぐという工夫さえ学び取っていない。英国軍はフランス軍の二倍から三倍の糧食を支給しているはずだが、その食事内容はひどいものだ。不運や欠乏に見舞われた時にそれを撥ね返す柔軟性と適応能力が英国軍の兵士には欠けているとしか思えない」
フランス軍と違って、英国軍には組織的に薪を集めるというシステムがなかったのです。英国軍の兵士には燃料として一定量の木炭が支給されることになっていたが、輜重隊の牛馬の餌となる飼葉が不足していたために、バラクラヴァ港から高地まで木炭を運び上げることができませんでした。士官は従卒に命じて自分の馬で木炭を運び上げていたが、兵士には木炭が支給されませんでした。その結果、12月から1月にかけての厳寒期には、数千人が凍傷にかかるなど、兵士の生活は耐え難い苦しみとなりました。特に新たにクリミア半島に送り込まれたばかりで、気候に慣れない兵士たちが凍傷にかかりやすかったのです。加えて、コレラその他の疾病が体力の衰えた兵士たちを襲いました。第九三ハイランド歩兵連隊のスターリング中佐は「病気が蔓延し、行動できる兵士の数が激減した結果、バラクラヴァ港から六マイルないし七マイルの距離にある高地まで木炭を運び上げる作業に人手を割くことができない。燃料がないので、靴下も靴も乾かすことができない。塹壕から戻ってくる兵士の足先は凍傷にかかり、足そのものが膨れ上がり、膿疱ができている。・・・こんなことが続くようなら、塹壕を放棄しなければならなくなるだろう・・・」
1月に入ると、完全に健康な状態で戦える英国軍兵士の数は二カ月前の半分以下にあたる1万1千人程度まで減少しました。
コメント
07月08日
09:32
1: RSC
フランス軍はナポレオンの頃から少し学習していたという事でしょうか。
07月08日
09:39
2: U96
>RSCさん
はい。フランス軍は港から前線まで石を敷き詰めて道を作り、補給を確保していました。それから今般、英国兵が都市労働者の出身だったのに対し、フランス兵は農民出身だったのが大きいですね。次回にはナイチンゲールを書けるかと思います。
07月08日
09:55
3: ディジー@「本好きの下剋上」応援中
ソ連時代には 石鹸は作れても それを各地に運ぶ事が出来ない国。と聞きましたが、戦場とはいえイギリスもそんな感じだったとはガッカリです。
07月08日
10:05
4: U96
>ディジー@「本好きの下剋上」応援中さん
官僚制の弊害です。イギリス軍は港に補給物資が着いても前線まで届けるには3枚の書類の提出が必要でした。その手続きが何週間もかかり、その間に積み荷の飼葉は腐ってしまいました。