おたくの為のSNS おたくMk2

U96さんの日記

(Web全体に公開)

2018年
07月07日
07:48

クリミア戦争史(その15)

 11月7日、ラグマン総司令官の司令部で英仏両軍の合同作戦会議が開かれ、その席でフランス軍が英国軍からインケルマン山を引き継ぐことが決定されました。同盟関係の中でフランス軍が優位に立ったことを暗黙のうちに認める決定でした。今や1万6千人にまで人数を減らした英国軍はセヴァストポリ周辺の塹壕の四分の一を支配するのみちなりました。会議では、また、フランス軍総司令官のカンロベールがセヴァストポリ攻撃を春まで延期するべきだと主張しました。春になれば、十分な規模の増援部隊が到着するはずである。ロシア軍は連合軍の大規模な砲撃に耐えただけでなく、その後さらに大幅に増強されていた。カンロベールによれば、セヴァストポリ市内のロシア軍の兵力は増援部隊を含めて今や10万に達しているはずでした(実際には、インケルマンの戦い後のロシア軍の兵力は5万人程度だった)。カンロベールが恐れていたのは、「東方問題に対するオーストリアの姿勢が変わらないかぎり、ロシアはベッサラビアと南ロシアから好きなだけの兵力をクリミア半島に送り込んで、セヴァストポリの防衛態勢を強化することができる」という事態でした。英仏両国とオーストリアとの間には軍事同盟が成立していました。したがって、「大規模な増援軍」をクリミア半島に導入することができる時までは、セヴァストポリを攻撃してこれ以上の人命を失うことは無益だとカンロベールは主張しました。ラグマンとその幕僚たちも、カンロベールに賛同しました。問題は連合軍の部隊がセヴァストポリ周辺の高地で冬で過ごすための物資の調達でした。たとえば、両軍がクリミア遠征のために持ち込んだテントは軽量の夏用テントだけでした。カンロベールは「テントの下に石を敷き詰めれば冬を越すことができる」と信じており、英国軍も同意見でした。英本国でも事情通のローズ大佐が同様の見通しをクラレンドン外相に説明していました。「クリミア半島の気候は温暖であり、例外的に冷たい北風が吹く時を除けば、冬の寒さはそれほど厳しくない」
 しかし、ロシアで冬を過ごすという見通しは多くの人々に暗い予感を抱かせました。1812年にナポレオンを襲った運命を思い起こさせたからです。ジョージ・ド・レイシー・エヴァンズ将軍はラグマン総司令官に対してセヴァストポリ攻囲作戦の中止と英国軍の撤退を進言しました。ケンブリッジ公は英国軍部隊をバラクラヴァへ後退させるよう提案しました。補給の容易なバラクラヴァに引き上げれば、冬の寒さに対処しやすいという理由からでした。しかし、ラグマンはどちらの提案も拒否し、冬の間もセヴァストポリ周辺の高地を確保する決定を下しました。この決定に失望した二人は冬の到来を待たずに職を辞して帰国してしまいました。二人に続いて多数の英国軍幹部が本国に帰国し始めました。クリミア半島で英国軍の指揮を取っていた1540人の高級将校のうち225人がインケルマンの戦いから二カ月以内に寒さを避けて帰国しています。そのうち、後にクリミアに再赴任した将校は60人にすぎませんでした。
 インケルマン戦の数週間後、本格的な寒さが始まると、連合軍の塹壕から脱走する兵士の数が急増しました。数百人の英国兵とフランス兵が戦列を離れてロシア軍側に逃亡しました。
 ロシア軍にとっては、インケルマン戦の敗北は壊滅的な打撃でした。セヴァストポリの陥落は早晩避けられないとの見通しを持っていたメンシコフは11月9日付で陸軍大臣ワシリー・ドルゴルーコフ宛に書簡を送り、クリミア半島全般の防衛に兵力を集中する方が得策であるとの理由から、セヴァストポリの放棄を進言しました。皇帝ニコライ一世は激怒して、11月13日にメンシコフに返書を送りました。「もし、我々が敗北に甘んじるようなことがあれば、ロシア軍兵士の英雄的な戦いと彼らが払った甚大な犠牲は何のためだったのか?インケルマンでは敵も同様に重大な損害をこうむったはずである。貴官の意見には賛同しかねる。敗北主義を捨てよ、人々の間に敗北主義を広めることも許さない・・・神は我々の味方である」。しかしインケルマン戦敗北に衝撃を受けたニコライ一世はクリミア戦争の勝利を保証した軍指導部への信頼を失いつつあったのでした。
 1854年の冬は11月の第二週に始まりました。セヴァストポリ周辺の高地では、三日三晩、肌を刺す寒風が吹きすさび、冷たい雨が降り続きました。英国軍の野営地では多くのテントがなぎ倒されました。毛布と外套以外に風雨を防ぐ手立てを持たない兵士たちはずぶ濡れになり、泥の中で震えながら寒さに耐えました。そして、11月14日の早朝、クリミア半島の沿岸部一帯を冬のハリケーンが襲いました。兵士たちは避難する場所を必死で探し求めて、屋根のない納屋や馬小屋に入り込み、稜堡の陰に隠れ、あるいは地面の穴にもぐり込む兵士もいました。
 湾外の状況はさらに深刻でした。ロシア軍が再びバラクラヴァ港を襲撃する事態を予想して、英国軍は多数の補給船を湾外に係留していたが、そのうち20隻以上が岩に激突して沈没し、数百人の人命と貴重な越冬物資が失われました。最大の痛手は蒸気船プリンス号の沈没でした。150人の乗組員のうち144人が命を失い、積み荷の冬用制服四万着が海底に沈みました。
 フランス軍はハリケーンの打撃から数日で立ち直りました。しかし英国軍が立ち直るにはもっと長い時間が必要でした。冬の到来は軍隊の経営能力を証明する試験の場となりました。この試験にフランス軍は辛くも合格しましたが、英国軍は惨めな不合格点を取ることになりました。
(つづく)

コメント

2018年
07月07日
12:43

黒海でも台風来るんですね!

近代になって、冬も戦闘をしなくてはならなくなり、近代の冬装備の開発が始まる契機が良く解ります。

2018年
07月07日
13:35

2: U96

>ディジー@「本好きの下剋上」応援中さん
はい。しかも11月に来るとはひどいですね。

第二次大戦ではロシア軍兵士には冬用綿入れの上着が支給されました。これはモンゴル支配下による伝統の防寒着です。あまり暖かくないのが欠点ですが。

2018年
07月07日
15:01

近代戦は冬には戦争を一時休戦とか一時休戦で物品のやり取りとかが無くなって、殺伐としていきましたね。

そのうち無人機による戦闘でしょうね、凄腕の少年兵とかで沿いうです。
そうなると娯楽化してしまいそう。

2018年
07月07日
15:16

4: U96

>櫻 弾基地(さくらたまきち 実験中)さん
負傷者収容で一時休戦はあります。

無人機の有用性は未知数ですね。

2018年
07月07日
15:41

5: RSC

高級将校はさっさと本国へ帰ってしまう辺り、何となく西洋らしさを感じますね。

2018年
07月07日
15:48

6: U96

>RSCさん
はい。この割り切り方、見習いたいものです。