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U96さんの日記

(Web全体に公開)

2018年
06月06日
05:38

アメリカ南北戦争(最終回)

 グラントは1864年6月にリーをピーターズバーグの防衛線の内側に閉じ込め、以来互いにがっちりと組み合って動きのない戦いを続けていました。リーは単に攻勢に出るだけの兵力がなかったのであり、グラントの方は、ラピタン川からジェームズ川までの進軍で75000の死傷者を出しており、この上守りを固めているリーに正面攻撃をかけるのは気が進みませんでした。したがって、グラントの戦略は包囲線を西へと伸ばし、リーの南からの補給を断つと同時に南軍の右翼の所在をさぐることでした。
 この戦役で最も興味を引くのは、7月に北軍が行った、南軍の防衛線の一部を吹き飛ばす作戦です。ペンシルヴェニアからの炭鉱夫の連隊が15mの長さのトンネルを掘り、その先端に巨大な地雷をしかけました。この地雷は技術的に瞠目に値するもので、その爆発は華々しかったのです。しかし、それに続く北軍の攻撃は、悲惨なまでの不手際を示しました。爆発でできた陥没部に北軍は突撃をかけ、そこで勢いを失ったのです。驚きからすぐさま我に返った南軍が反撃に出、混乱した北軍は陣地まで押し戻されました。この作戦で北軍は4000の死傷者を出しました。
 定石に戻ったグラントは、8月にウォーレンとハンコックをウェルドン鉄道を押さえるために送りました。その進軍は8月18日のグローブ酒場の戦いでの南軍の反撃によって勢いを削がれ、北軍は鉄道の小さな一部を押さえたものの、南軍の荷は単に北軍の突出部を迂回しただけで、ピーターズバーグには相変わらずその経路から補給物資が届き続けたのです。
 9月から10月にかけて、シャーマンがアトランタ北方でフッドを追っている頃、グラントは再び南軍の右翼がどこまで伸びているのかをさぐり、ピープルズ農場の戦い、ポプラー・スプリング教会の戦いが起こりました。そして10月27日、サウスサイド鉄道に対する北軍の一撃は、バージェス・ミルの戦い(またはハッチャーズ・ランの戦い)で撃退されました。
 しかし、これらの戦いは決定的なものではなく、冬の間、両陣営の間は比較的平穏だったのです。グラントもリーも、シェナンドー渓谷のシェリダンとアーリーの、フッドのテネシー侵攻の進展を追い、シャーマンのジョージア進撃の報せを待ちました。両陣営の兵士たちは非公式な休戦を既成事実化し、コーヒーやタバコ、ニュースを交換しました。
 しかし、冬は、包囲している北軍よりも、南軍にとってつらいものになりました。とりもなおさず、物資や食料の入手がより困難だったということです。9月にウェード・ハンプトンが肉牛集めの襲撃に出、いくばくかの新鮮な肉を補充したが、概して食事は少なく、内容も貧弱でした。
 春になりました。グラントもリーも決断の時が近いことがわかっていました。フィッシャー砦が北軍の手に落ち、か細くなる一方の兵站基地から唯一残った頼りない鉄道を通じて補給物資が細々とピーターズバーグに届けられる現状の中、リーに残された希望は一つしかありませんでした。それもほんのわずかな見込みでしかなかったのです。どうにかしてピーターズバーグでの戦線から離脱して、ノースカロライナのジョンストンの軍と合流し、シャーマンを討つのです。
 行動に出る前にグラントのピーターズバーグに対する締め付けを弱めねばなりませんでした。それを成し遂げるため、リーはジョン・B・ゴードンにステッドマン砦を攻撃し、北軍の背後に回り込むことを命じました。このような動きによって北軍の組織を乱すばかりでなく、兵たちを北側に引き寄せ、ピーターズバーグ脱出の経路から遠ざけることを期待していました。
 3月25日のゴードンの攻撃は慎重に計画され、南軍は砦そのものの奪取には成功しました。しかし、北軍の反撃により戦線突破は食い止められ、ゴードンは撤退するほかありませんでした。この攻撃によりリーは3500ほどの兵を失いました。今や軍の全兵力の一割にあたるものでした。
 グラントはリーの意図を読み、シェリダンの騎兵にウォーレンの歩兵の支援を付けて、今一度南軍の右翼をさぐりに出しました。北軍はいきなりディヌイディ・コートハウスでの小競り合いで阻まれたが、4月1日、続くファイブ・フォークスの戦いで南軍の右翼が崩れ、リーの陣地は突如として危ういものとなりました。
 グラントは全戦線にわたって攻撃を命じ、翌日、ライトの軍団がポプラー・スプリングズの近くで突破に成功しました(この戦いでA・P・ヒルが命を落とした)。
 その夜、リーはピーターズバーグ、そしてリッチモンドからの撤退を開始しました。リッチモンドには南軍兵の手によって火が放たれました。南部連合の大統領デーヴィスは脱出の際、女装していたと伝えられています。福沢諭吉がこの時の写真を日本に持ち込み、官軍の将官に贈って、榎本武楊の助命を願い出たそうです。「命は大切なものだ、何としても助かろうと思えば、かく見苦しい姿をしても逃げるのが当然の道である」福沢の写真が果たしてデーヴィスのものだったのかどうかはわからないままです。リーがジョンストンとの合流を果たすためには、グラントの追撃部隊より先にリンチバーグに着く必要がありました。4月5日、アミーリア・コートハウスから8km南西のところで軍をいったん停止させたリーは、リンチバーグへの道にシェリダンの騎兵が立ちはだかっていることを知り、西に進路を転じ、荒野を横切っていくことにしました。
 その翌日、今や20000にも満たない南軍は反転して追撃する北軍を撃退しようとしました。しかし、セーラー河畔での南軍の戦列は、最初の北軍の攻撃で崩れ、疲れ果てた南軍の古参兵8000が捕虜になりました。
 13000にも満たない兵とともに、リーはアポマトックス・コートハウスまで押し進みました。その進軍路上で待っていたのは、シェリダンの騎兵ばかりではなく、ジェームズ流域軍からの北軍歩兵二個軍団でした。もはやこれまででした。ちりぢりになって山地を根拠にゲリラ戦を続けようと提案する者もいたのですが、リーは首を縦に振りませんでした。「今できることはグラント将軍との会見に赴くことだけだ。むしろ千回でも死ねたほうがどんなにましなことか」
 1865年4月9日、アポマトックス・コートハウスの村のウィルマー・マクリーンの私邸の客間で、ロバート・E・リーはユリシーズ・S・グラントと会見しました。マクリーンは以前ヴァージニア北部のブル・ラン河畔に住んでいたのですが、裏庭同然の場所で大きな戦いが二度もあってから家を売る決心をし、アポマトックス・コートの静かな、軍事的重要性のない村に引っ越ししていたのです。
 この4月9日の朝、リーの副官が歴史的会見にふさわしい場所を探しに村にやってきたとき、唯一見つかった白人住民がマクリーンでした。最初はマクリーンは空き家を使ってはどうかと言いましたが、副官は適切でないとして認めませんでした。こうして、少なくとも一つの意味において、戦争はそれが始まった場所、ウィルマー・マクリーンの自宅において終わったのです。
 リーは午後1時ごろに到着しました。きらびやかな礼装用軍服に身を包み、かくしゃくとしたその姿は、兵たちにたとえこのような悲劇的な結末だとわかっていてもついていきたいとの思いにさせました、あの気高い物静かさを漂わせていました。リーは客間の角の、小さな大理石のテーブル近くに腰を下ろして待ちました。
 グラントは1時半に10名あまりの北軍将官を従えて到着しました。その中にはシェリダンや、バトラーからジェームズ流域軍の指揮を引き継いだジェームズ・オードも含まれていました。リーは立ち上がってグラントを迎え、両人は握手しました。グラントは礼装を持ってきていなかったので、前線用の制服に乗馬ブーツといういでたちでした。
 グラントは部屋の中央付近に腰掛け、側近たちはその後に立ちました。グラントは、会話の口切りに、リーとは以前メキシコ戦争の折りに会ったことがあると言いました。リーが割り込んで核心の問題を持ち出しました。「グラント将軍、この我々の会見の目的はお互い十分わかっているはず。会見を申し入れたのは、我が軍の投降条件を確認するためにほかならない」
 グラントの条件は過酷なものではありませんでした。兵は武器を置き、宣誓の上で仮釈放され、正式な捕虜交換がないかぎり二度と軍務に就かないことを誓うというものでした。リーはうなずいて、グラントにそれを文書にするように求めました。グラントは命令書の記録に使っていた複写式の帳面を持ってこさせ、自ら条件を書き下しました。士官の携帯する銃や剣、馬、私物は保持が認められるとされました。
 リーは文書を丹念に調べました。リーには一つ要望がありましたが、言い出しにくいことでした。騎兵や砲兵個人の所有する馬などはどうなるのか。馬やラバを持ち帰ることは許されるのか。ポーカーフェイスのまま、グラントは書き下された条文では許されないことになると答えました。「いかにも」リーは静かに答えました。「この文面では許されないことはわかる。それは明白だ」グラントは「なんとかしよう」と断言しました。
 副官が修正された降伏文書の浄書を準備する間、グラントはリーを幕僚たちに紹介しました。午後3時を少し過ぎたころ、降伏文書の浄書ができあがり、署名されました。これですべては終わりました。
 リーとグラントは今一度握手しました。今や仮釈放された捕虜の身である南軍司令官リーは愛馬トラヴェラーに乗って陣営に戻り、古参兵たちに、彼らも仮釈放中の捕虜となったことを告げました。
 ロバート・E・リー、戦後は南部の人々へ連邦への忠誠を説き、また、ワシントン大学の学長となりました。1870年10月12日に病死。最後の言葉は「進撃だ、テントをたため」でした。ユリシーズ・S・グラント、1868年に大統領に当選し2期つとめたが、汚職にまみれ、「歴代最低の大統領」の汚名をかぶり、政界引退後も事業に失敗しました。最後は病気で水も飲めない苦しさの中、息を引き取りました。最後の言葉は「水・・・」でした。
(完)

コメント

2018年
06月06日
12:16

大連載 お疲れ様&ありがとうございました!

南北戦争は名前だけで詳しい事を中々伝わってこないので、U96さんの日記は とても勉強になりました。

最期は事業に失敗して。とは悲しいです。

またヨロシクお願いします^^
 (リクエストなんて受け付けてくれたりして?)

2018年
06月06日
15:09

2: U96

>ディジー@「本好きの下剋上」応援中さん
ありがとうございました。
リクエストも受け付けておりますよ。
今すぐ書けるのは源平合戦ですが。

2018年
06月06日
15:24

実はクリミア戦争が気になっているのですが、書籍で読もうかな。

源平合戦も楽しみにしています!

2018年
06月06日
16:44

4: U96

>ディジー@「本好きの下剋上」応援中さん
クリミア戦争はボードゲームになっております。ナイチンゲールが登場すると、イギリス軍の回復力がUPします。

源平合戦は思い入れがあります。なにせ、平家は神戸を日本の首都にしてくれましたから(半年もたなかったけど)。

2018年
06月06日
17:30

15回(+外伝)に渡る連載お疲れ様でした。

2018年
06月06日
17:43

6: U96

>闇従(あんじゅ)さん
ありがとうございます。
実は外伝の方が書いていて楽しかったりして・・・
それにしてもシュタイナーさんが独ソ戦史を書いてくれたならば、こちらもかなり助かるのですが、本人がイヤだと言うなら仕方ないですね(シュタイナーさんはドイツ軍の軍服一式を所有しております)。

2018年
06月06日
18:48

>。福沢諭吉がこの時の写真を日本に持ち込み、官軍の将官に贈って、榎本武楊の助命を願い出たそうです。

島国の日本で恥をかくことになるなんて、思いもしなかったでしょうw

完走おめでとうございます!
次はなにかな?

2018年
06月06日
19:07

8: U96

>櫻 弾基地さん
ありがとうございます。

エネルギーの充電のため、はじめは軽い読み物になるかもしれません。

2018年
06月06日
19:54

9: RSC

完走おめでとうございます。

黒人部隊こと既に第54マサチューセッツ歩兵連隊は一度第二次ワグナー砦の戦いで被害を出し、指揮官を失いましたが、この後もアメリカ軍は「バッファロー・ソルジャー」の愛称で知られるアフリカ系アメリカ人の部隊を創設、活躍していったそうです。

2018年
06月06日
20:23

10: U96

>RSCさん
ありがとうございます。

それは存じませんでした。教えて下さり感謝いたします。
ついでながら次は日本史になるかもしれません。