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U96さんの日記

(Web全体に公開)

2018年
06月02日
13:15

アメリカ南北戦争(その12)

 南軍は再度、ペンシルヴェニア州への侵入を企図しました。それは軍事的にも政治的にも博打に等しいものでしたが、南部が状況を打開するには賭けるしかなかったのです。リーの計画は迂回してペンシルヴェニア州の奥深くに侵攻し、対峙していたフッカーのポトマック軍をおびき寄せ、そこで一大決戦を挑んで北軍に大打撃を与えた後、講和により戦争を終結に持ち込む、というものでした。
 リーは南軍の北ヴァージニア軍を率いていったん西へと移動したあと北上を開始しました。山脈に側面を護られながら、カンバーランド峡谷を通って6月27日にペンシルヴェニアに入り、そこで補給物資を調達して、態勢を整える。一方、フッカーもこのリーの動きに気づいて陣地を撤収し、東側からリーの後を追いました。だが、リーの配下にある騎兵隊は、その本来の任務である偵察から外れて、北軍騎兵との小競り合いを続けており、そのためにリーは北軍主力の位置を見誤ることになるのです。
 6月27日、以前からリンカンと反りの合わなかったフッカーは辞表を叩きつけました。はったりでしたが、リンカンはその裏をかいてその辞表を受理してしまいました。翌日、北軍では新しい司令官としてジョージ・ゴードン・ミードが任命されました。今度の任命は間違いではありませんでした。ミードは現実的な判断力を有し、めざましいことをしそうにない代わりに馬鹿げた事も絶対にしないという人物でした。リンカンはペンシルヴェニア出身だから自分の縄張りで善戦するだろうとコメントしたと伝えられています。ミードは、フッカーの作戦を継続してリーの主力の追撃を続け、6月30日にはレイノルズ将軍の第1軍団とハワード将軍の第11軍団にゲティスバーグへ向かうよう命令を下しました。同じ頃、南軍ヒース将軍に率いられた師団も、底をついた靴の補給を行うためゲティスバーグの町に向かっていました。小さな大学町ゲティスバーグでは靴の大安売りが行われていたのです。町の北西部でヒース師団の先頭部隊と接触した北軍の騎兵指揮官ビュフォードは、これから始まる戦いではその周辺の屋根地帯が重要になると判断し、騎兵を降馬させて布陣を敷いたのです。
 7月1日の朝8時頃、ヒースの本隊がゲティスバーグへと通じるチェンバーズ・パイクに沿って現れ、ビュフォードの部隊に攻撃を仕掛けました。ヒースは敵情を把握しておらず、漠然と兵を投入していたが、後続の部隊が到着につれ戦線は少しずつゲティスバーグの町へと近づいていました。朝10時頃にレイノルズの救援部隊が到着し、戦況は北軍に傾くかに見えたのですが、南軍の一狙撃兵が馬上のレイノルズを狙撃し、レイノルズはその場で絶命してしまいました。
 会戦初日の7月1日が終わった時点で、北軍はカルプス・ヒルからセメタリー・ヒル、そしてエミッツバーグ・ロードに沿った陣を敷いて、南軍の攻撃に対峙していました。一方の南軍は、ヒース師団が所属するA・P・ヒルの第3軍団がゲティスバーグの西方に展開し、ユーウェル将軍の第2軍団は町の北方から到着、そして智将ロングストリートに率いられた第1軍団も町の南西から戦場に向かっていました。ロングストリートは、こんな場所で決戦を行うのは無謀だとリーに進言したが、リーは翌7月2日の朝に攻撃命令を下しました。
 ロングストリートは、渋々ながらも命令に従ってフッドとマクロウズの両師団を戦線南部の果樹園からラウンド・トップに至る丘陵地帯へと向かわせました。午後3時頃になってようやく支援砲撃が開始され、フッドの師団は『デビルズ・デン』と呼ばれる巨大岩石地帯を突破して丘陵へと突入したが、北軍の工兵指揮官ウォーレン将軍の機転でリトル・ラウンド・トップへと急派されたチェンバレン大佐の第20メーン連隊がたび重なる南軍の波状攻撃を撃退することに成功しました。フッドの師団は壊滅的な損害を被り、フッド自身もこの戦闘で重傷を負いました。
 北部では、2日の夜にユーウェル配下のジョンソンの師団がカルプス・ヒルを、同じくアーリーの師団がセメタリー・ヒルを攻撃していたが、残るローズの師団は攻撃準備に間に合わず、結局どちらも中途半端な形でしか成果を得られていませんでした。ハワードの第11軍団は、小川沿いに行われた南軍2個旅団(エイヴリー・ヘイズ)の攻撃を撃退したが、エイヴリーは戦死した際、次のような遺書を紙片に書き留めていました。「少佐へ。私は敵に顔を向けたまま死んだと父に伝えてくれ。」
 7月3日の朝になっても、リーは方針を変えることを拒みました。彼は北軍の増援部隊が北部(カルプス・ヒルおよびセメタリー・ヒル)と南部(リトル・ラウンド・トップ)に分割されている点に注目し、布陣が薄くなっているはずの中央部のセメタリー・リッジに全予備兵力を投入する決定を下しました。ロングストリートはこの決定に絶望し、その攻撃指揮は自分ではなくA・P・ヒルに執らせてはどうかとまで提言したが、結局彼の指揮下で最後の突撃が行われることに決まりました。攻撃兵力は、ロングストリート配下の猛将ジョージ・ピケット将軍の師団と、A・P・ヒル配下のペティグリュー師団、そしてユーウェルの無気力さに失望してリーに転属を志願していたトリンプル将軍に率いられた1個師団(元の師団長はペンダー)の計3個師団で、これにペンデルトン将軍に統括される南軍の砲兵予備隊が投入されました。
 7月3日午後1時、南軍の砲撃が開始されました。北軍も砲撃を開始しました。2時少し過ぎ、北軍の砲台は砲撃をゆるめ、破壊されたのだと思わせようとしました。この計略は当たり、両陣営の砲声が静まった3時ごろ、南軍の歩兵は神学校の丘の頂の木立(セミナリー・リッジ)を出て隊列を整えました。
 攻撃には十一個旅団が加わっており、42の連隊旗が垂れ下がっていました。何人かの士官が短い演説をしました。ピケット自身も兵に向かってヴァージニア精神を忘れるなと声を張り上げました。そして整然と遮蔽物のない幅2kmほどの平野を横切って北軍陣地へと前進しました。北軍の反撃砲火で次々と兵を失いながらも、南軍部隊はセメタリー・リッジに沿って築かれた石積み(ブレストワークス)を越えました。ルイス・アーミステッド准将が、剣先に帽子を掲げ、率いる300かそこらの兵の目印としました。アーミステッドは一気に砲台を占拠しましたが、この直後、アーミステッドは致命傷を受けて倒れました。そこが南軍の攻撃の限界でした。数多くの有能な指揮官が戦死し、南軍は撤退しました。退却してくる者たちをリーは自ら出迎え、予想される北軍の反撃に備えさせました。出陣した12500のうち、7500ものが未帰還でした。ピケットの5000のうちでは翌日任についたのは800にすぎませんでした。
 リーもロングストリートも、ミードが勝ちに乗じて攻めてくるものと思っていましたが、北軍の司令官はこれまでの戦果だけで満足でした。「十分よくやった」と、ミードは言いました。リーは「この敗戦の責任はすべて私にある」と言い、兵は拍手したのでした。
 ゲティスバーグの戦いにおける両軍の戦死者・負傷者数は、南軍北ヴァージニア軍が参加兵力70000人中戦死4559人・負傷12000人・行方不明6000人。北軍ポトマック軍では参加兵力94000人中戦死3149人・負傷14000人・行方不明5000人です。
 リーは最大の賭けに敗れたのです。もはや二度と南軍がワシントンを脅かす事はできないでしょう。ゲティスバーグからヴァージニアへ退却をはじめた7月4日には西部戦線でヴィックスバーグが陥落。南部の勝機は永遠に失われたのです。リーは南部連合の大統領デーヴィスに南軍総司令官の辞任を申し出ましたが、受理されませんでした。
(つづく)

コメント

2018年
06月02日
18:21

史上に名高いゲティスバーグの戦いが 靴の大安売りを目指しての作戦だったとは!!
・・・・違いますか!?

名前は有名な「ゲティスバーグの戦い」の詳細が良く解って嬉しいです。天下分け目の戦いだったのですね。

2018年
06月02日
19:28

2: RSC

リンカーンも北部を纏める政治的工作で大変だったのでしょうが、司令官を変えすぎの様な気がしますね。逆にデーヴィスはリーの動きに殆ど干渉していませんが、会戦では負けてしまいました。

OO7「リビング・デイライツ」では悪役がフィギュアを使いこの戦いをSE付きで再現しているシーンがあります(ただし南軍が勝つにはどうすべきかという前提で人形が置かれていて、史実との配置の違いをボンドに指摘されています)。

2018年
06月02日
19:43

3: U96

>ディジー@「本好きの下剋上」応援中さん
はい。その通りです。海上封鎖が大分応えてきていますので、南軍兵士の中には、はだしの者もおりました。

南北戦争の天王山ですね。この後、南軍はチカモーガの戦いでの勝利がありますが、戦局が悪くなる一方での久々の明るいニュース程度の役割しかありませんでした。

2018年
06月02日
20:08

4: U96

>RSCさん
ゲティスバーグの南軍の勝機ですが、それは1日目の夕方でした。レイノルズが狙撃されて、アブナー・ダブルデーが第1軍団の指揮を引き継ぎましたが、オリヴァー・O・ハワードが第十一軍団を率いて到着して右翼に戦列を組むと、指揮を交代していました。ハワードの兵たちはチャンセラーズヴィルの戦いから立ち直っておらず、南軍のユーエルの兵たちがその正面に突っ込むと、全く勝負になりませんでした。ゲティスバーグの町を通過して、すぐ南側のセメタリー・ヒルの丘に籠りました。もし、ユーエルがセメタリー・ヒルを攻撃していたら、北軍は新しい陣地からも追われていたことは間違いないと言われております。しかし、リーは全軍が集結するまで全面戦闘に入らない様に注意しました。それでもユーエルの部下は攻撃を強く主張しました。

2018年
06月02日
20:12

この頃の人の写真って髭がかなり立派ですが、これは宗教上必要だから?それとも単なるファッション?ひげ剃る習慣が無かった?
謎です。

2018年
06月02日
20:18

6: U96

>櫻 弾基地さん
ファッションだと思います。それから29歳で指揮官になった人物がいて、年齢をごまかすために髭を延ばしたという話も聞いております。