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U96さんの日記

(Web全体に公開)

2018年
05月31日
06:29

アメリカ南北戦争(その10)

 西部戦線では1862年10月25日、グラントはテネシー方面軍の司令官になりました。ほぼ同じころ、南部の大統領ジェファソン・デーヴィスはジョン・C・ペンバートン中将(南軍で三つ星の中将まで進んだ唯一の北部生まれの将校)をミシシピィ軍の新たな司令官に任命しました。前任の司令官アール・ヴァン・ドーンはペンドーンの騎兵師団の指揮を引き受けました。
 グラントはペンバートンの二倍以上の兵を動員することができました。11月にグランド分岐点駅の基地から南進を開始したときには、ペンバートンの22000に対して40000近い軍勢を投入していました。南進の途上、グラントはホリー・スプリングズに対して大規模な補給拠点を設け、それからタラハチー川を渡って進軍を続けました。ペンバートンはグレナダまで退がり、増援を要請しました。デーヴィス大統領が西部戦線を訪れ、ブラッグにマーフリーズボロから、10000の兵をペンバートンに送るよう命じたのは、このとき、12月下旬のことでした。しかし、その増援が着く前に、前司令官ドーンの動きがペンバートンの立場に劇的な変化をもたらしました。
 12月20日の明け方、ヴァン・ドーンは約3500の南軍騎兵を率いて駆け足でホリー・スプリングスに突進しました。1500の北軍の守備隊はたちまち降伏しました。ヴァン・ドーンの騎兵は運べるだけのものを奪うと、残りの物資に火をかけました。150000ドル以上に相当する補給物資、食糧、弾薬が炎に包まれました。
 さらに、120kmほど北東では、ネイサン・ベッドフォード・フォレストがヴァン・ドーンと同じような手並みでテネシー州ジャクソンに速攻をかけました。こちらはグラントにとって、ケンタッキー州コロンバスへの補給路でした。フォレストはジャクソンの北軍の補給物資を破壊したばかりでなく、90km以上もわたって線路を引きはがし、電信線を引き倒しました。グラントは、これらの襲撃によって「補給路を断たれ、本ルートによる進軍を続けることは全く非現実的となった」と報告しています。翌日、グラントはグランド分岐点までの撤退行を開始しました。
 その一方、一見ミシシピィ州での軍事行動とは関連のなさそうな出来事からの影響もあって、グラントは作戦計画を変更することになりました。グラントのあずかり知らぬことでしたが、イリノイ州の民主党政治家ジョン・A・マクラーナンドが9月にリンカン大統領を訪れ、とある計画と難題をもたらしました。計画とは、マクラーナンドが個人的に中西部の諸州で兵を集めて軍を編成し、その軍をヴィックスバーグ奪取に使おうというものでした。
 問題は、リンカンがこの提案を受け入れれば、西部での指揮系統に混乱をきたさずにはすまないということでした。さりとて拒否すれば、中西部の政治勢力であるマクラーナンドの機嫌をそこねることになります。それに、少なくとも、この計画によって軍の募兵負担がいくぶん軽減されることはあるでしょう。そこでリンカンは提案を受け入れ、満足したマクラーナンドを募兵に行かせました。
 この一風変わった計画のことをグラントが知ったのは12月になってからのことでした。その話を聞いたグラントはリンカンに照会しました。大統領は、グラントはテネシー方面軍の司令官であり、その管区にある兵は、グラントが最善と思う使い方をしてよいと保証しました。1862年12月のこの時、グラントが最善と思ったのは、マクラーナンドが集めた兵はメンフィスにあるシャーマン傘下に加わり、マクラーナンド本人が着く前にシャーマンは川を下ってヴィックスバーグを襲撃するということでした。
 シャーマンは12月20日に南へ向かい(ヴァン・ドーンの補給拠点襲撃と同じ日)、12月27日、ヴィックスバーグのすぐ北のチカソーの絶壁を襲撃しました。これは無益な試みに終わりました。南軍の損失がわずか187だったのに対し、北軍は1800もの死傷者を出しました。
 この攻撃を実行に移した時点ではシャーマンは知らなかったが、ヴァン・ドーンの襲撃がすでにグラントに撤退を強いており、ペンバートンはすぐさま軍をヴィックスバーグに輸送してこの新たな脅威を撃退するのに間に合ったのでした。シャーマンはそれでも再戦の用意があったが、この年最後の日にマクラーナンドが(新妻を引き連れて)到着し、シャーマンから指揮を引き継いだのでした。
 マクイラーナンドの最初の作戦行動は成功でした。ハインドマン砦への遠征は、砦を降伏させたばかりでんなく、5000の南軍兵を捕虜にしました。しかしシャーマンも海軍大佐デーヴィッド・ディクソン・ポーターも、マクラーナンドの高圧的なふるまいや尊大な態度で軍事上の指図をするのに嫌気が差しており、グラントにヴィックスバーグに来てグラント自ら指揮をとってほしいと懇請しました。
 グラントは自分の目で状況を確かめるために1月下旬にやってきました。そこで見た状況、そしてマクラーナンドの人となりから、グラントもシャーマンとポーターが正しいと判断しました。マクラーナンドの抗議にもかかわらず、グラントはミシシピィ川に軍勢を集結させ、自らの直接指揮のもとヴィックスバーグを西側から攻めることにしました。
 敵方のヴァン・ドーンと有力政治家マクラーナンドのおかげで、グラントは北軍のヴィックスバーグ攻撃を川から行うことにしました。グラントは今でも東からのアプローチが最善だと思っていたが、今さら川を遡ってメンフィスに戻るなどといった後退運動は、失敗を認めたものと受け止められ、反政府系の新聞に攻撃材料を与えることになります。そのためグラントも腹をくくり、ミリケンの湾曲部にある基地からヴィックスバーグへの作戦行動をすることにしました。60000の軍をほぼ同じ規模の三つの軍団に分割し、それぞれマクラーナンド、シャーマン、ジェームズ・B・マクファーソンの指揮下におき、攻撃計画を練り始めました。
 2月と3月の間にグラントは、直接攻撃を避けるため、ヴィックスバーグ北の高地に向けての三つの別個の作戦を実行させました。いずれもヴィックスバーグの裏口へ通じる水路を見つけるためのものだったが、どれ一つとして実を結ばなかったのです。マクファーソンの軍団はミシシピィ川西岸の湖やバイユー(よどんで沼のような緩流河川。地図には示されていない)の調査を託され、ヤズー川の上流やスティールのバイユーへも探検隊が派遣されました。
 グラントが最終的な成功につながる作戦を開始したのは4月になってからのことでした。ヴィックスバーグの奪取は東からでなければならないというのがグラントの最初からの持論でした。問題はどうやって市街の東に至るかでした。
 グラントが4月2日に海軍のポーターに提案した内容は、提督が全艦隊を率いて市街の眼前を強行して下流側に出、陸軍は西側の沼地やバイユーを迂回する陸上からの経路を探して、ニューカーセッジまたはハード・タイムズにおいて合流を果たすというものでした。そこでポーターが兵を対岸に運ぶのです。
 簡単ではあるが、危険な賭けでもありました。なんらかの理由で作戦が失敗した場合、後戻りはできないのです。川を下るポーターの艦隊がさしたる損害も受けずにヴィックスバーグの砲台の眼前を通過するのはできるとしても、5ノットの流れに逆らって同じような軽微な被害で引き返すのはまず不可能でした。
 暗い夜を選んで、ポーターは4月16日に行動に出ました。警戒していた断崖上の歩哨は威嚇射撃をし、ヴィックスバーグからの有志たちが豪胆にも小舟で対岸に渡ってかがり火を焚き、漆黒の川の上に北軍の砲艦のシルエットを浮かび上がらせました。一時間以上にわたって反乱軍の砲台は通過する北軍艦隊に砲撃を加えたが、輸送船一隻と若干のはしけを除いて、艦隊は無傷で通過に成功しました。
 今度は陸軍の番です。マクラーナンドの軍団が先頭に立って、ラウンドアバウト・バイユーに沿った古い土手道を進みました。道は悪く、行軍は遅かったです。この動きを悟られないよう敵の注意を引き付けるため、グラントは二つの陽動作戦を利用しました。第一に、シャーマンが市街北の断崖へ攻撃をかける。第二に、ウィリアム・グリアソン准将が騎兵を率いてグランド分岐点駅からバトン・ルージュまで、ミシシピィ州を縦断する襲撃行に出る。北と東からのこれらの脅威に南軍の目が向けられているうちに、43000ほどの北軍がハード・タイムズに集まり、渡河を待ちました。
 もともとの計画ではポーターの艦隊がグランド・ガルフの南軍砲台を破壊することになっており、しかるのちその地点に兵を上陸する手はずでした。しかし、これは予想以上に困難で、グランド・ガルフはほとんどヴィックスバーグと同じくらいの難物でした。結果として、4月30日、グラントは15km下流のブルーインズバーグに兵を上陸させました。内陸を進む北軍は、5月1日、ポート・ギブソン近郊で小規模な南軍部隊をやすやすと一蹴しました。こうして回り込まれたグランド・ガルフの南軍は陣地を放棄せざるを得ませんでした。
 続く二週間の間、グラントは連絡路を放棄し、軍勢を東へ進め、ミシシピィ州の州都ジャクソンを5月14日に奪取しました。それから進路を西に転じ、ヴィックスバーグージャクソン鉄道に沿ってヴィックスバーグへ向けて進軍しました。ペンバートンは5月16日にはチャンピオンズ・ヒルで、その翌日にはビッグ・ブラック川でこれを食い止めようとしたが、グラントは数で勝る上、隙も見せませんでした。グラントの進撃を止めることに失敗すると、ペンバートンは用意したった防壁の内側に後退しました。グラントは二度に渡って強行突破しようとしました(5月19日、22日)が、この時点からこの作戦は包囲戦に変わりました。
 包囲は48日間続きました。一日も欠かさず、北軍は市街に砲撃を加え、敵が飢えに敗れるのを待ちました。7月までには生き残った住民は文字どおり飢え死に寸前の状態でした。7月3日、ペンバートンはグラントに投降条件の呈示を求め、その翌日、ゲティスバーグでリーが敗れたころ、ペンバートンの兵は市街を出、武器を置いて正式に投降しました。ヴィックスバーグの陥落によって北軍はミシシピィ川を完全に掌握し、南部連合は東西に分断されたのでした。
(つづく)

コメント

2018年
05月31日
18:35

>マクラーナンドが集めた兵はメンフィスにあるシャーマン傘下に加わり

戦車の名前も彼から来ているのでしょうね。

2018年
05月31日
19:27

2: U96

>櫻 弾基地さん
そうですね。リーグラントなんて複合名なんてのもありますね。

2018年
05月31日
19:50

3: RSC

鉄道を再利用しないで徹底して破壊していくのは、戦略上の目的というより何か執念めいたものを感じます。

2018年
05月31日
20:06

4: U96

>RSCさん
南軍のフォレストはシャーマンに「あの悪魔のフォレストは10000名の損失と国庫の破滅を招いても追い詰めて殺さねばならない」と言われました。戦後はKKK団の指導者の一人となりましたが、後に離脱。1877年10月29日、糖尿病で死去しました。