イタリア歩兵師団といえば、第2次世界大戦で登場する歩兵師団の中で最弱師団というイメージを持つ人も多いと思います。そして、その装備の劣悪さは、イタリア歩兵師団を視察した多くのドイツ軍将官をして、「このような装備で戦争をさせるのは人道上の問題である」とまで言わしめるほどでした。そして、そのイタリア歩兵師団こそが、イタリア陸軍の主力をなす存在でした。1940年6月現在、イタリア陸軍歩兵師団は、その数43個。全イタリア陸軍師団73個の実に半数以上を占める存在です。しかも、この数には、海岸警備歩兵師団は含まれていません。そこで、今回、このようなイタリア歩兵師団の真の戦力の分析とその問題点、および強力な歩兵師団として、活躍できる余地はなかったのかを検討したいと思います。
師団編成の特徴としては、第1に偵察大隊の不存在が指摘できます。これはかなり異質です。日本軍の歩兵師団でさえ、捜索連隊(実質は大隊規模)があり、装甲車が配置されています。そして、ドイツ軍の歩兵師団にも偵察大隊が存在します。偵察大隊がないのは、イタリア軍の統帥部が、歩兵師団を追撃に用いることは考えていなかったことを示していますが、師団という戦略単位の部隊が、独自の地上偵察専門部隊を保有していなかったのは、戦闘をする際には大きなマイナスであったことは間違いありません。
第2に、黒シャツ連隊という政治色の強い半軍事組織が、歩兵師団の編成内に存在することです。ドイツでいえば、陸軍歩兵師団の編成内に、親衛隊が存在するもので、ソ連でいえば、歩兵師団の中にNKVD(後のKGB)で構成されている連隊が存在しているようなものです。何かと軋轢がおきる原因になることは、政治と軍事の関係から言えば当然です。そして、この部隊はドイツの武装親衛隊のよに優良装備と良質の隊員で構成されたエリート部隊なのではなく、重火器を装備しない政治部隊=督戦部隊的なもののようです。
どうやらイタリア人は、クラウゼヴィッツのいうところの最良の軍人=「政治的なことは考えず、ひたすら敵を倒すことだけを考える軍人」とは反対のタイプの軍人を、歩兵師団の中に連隊単位で編成することをおかしいとは考えなかったようです。
第3に、1940年6月、つまり、イタリアが本格的に第2次大戦に参戦する前の時期から、歩兵師団の編成を2個連隊=6個大隊編成としていることです。この時期、ドイツを初め、世界のほとんどの国の歩兵師団は、3個連隊=9個大隊編成を取ることを基本にしていました。
ドイツ軍は人口の枯渇した1944年に1944年型歩兵師団編成を取り、このときに、全歩兵師団の歩兵連隊の歩兵大隊を2個に削減しました。このため、1944年以降の、特に東部戦線で、歩兵大隊数が全部で6個に減少し、予備兵力を持たないドイツ1944年型師団の歩兵連隊の戦線が簡単にソ連軍の攻勢で崩れるケースが増加しています。特にバグラチオン作戦での、ソ連軍の電撃的な戦線突破の背景には、このときのドイツ歩兵師団の編成改編があります。
ところが、イタリア軍の場合、まだ、戦争に本格的に参戦していない、1940年6月の段階で、すでに歩兵師団の歩兵連隊の編成内には、歩兵大隊が合計6個しか存在しないのです。つまり、この時期にすでに、イタリア歩兵師団は、2個連隊を前線に出し、1個連隊を予備として拘置するという世界共通の基本的な部隊運用ができない編成になっていたのです。そして実質的に1個中隊しか存在しない工兵(工兵大隊所属の2個中隊のうち、1個中隊は通信中隊)、師団直属の対戦車砲部隊としてはわずか1個中隊しか存在しない対戦車砲部隊の戦力の弱体さも指摘できます(各連隊には、対戦車砲中隊1個が編成されています。師団合計で3個中隊=47mm対戦車砲が24門)。
なぜこのようになったのでしょうか。最大の理由はムッソリーニの師団数を増やせば、大陸軍になったような気になるという妄想に基づく、軍備拡張政策にあると思われます。ヒトラーとの最大の違いが、この陸軍に関する専門知識のなさやセンスのなさです。このような歩兵師団の編成を許した、イタリア陸軍参謀本部編成担当部門の責任も大きいでしょう(つづく)。
コメント
08月29日
19:58
1: 退会済ユーザー
長靴で乾杯して誤魔化すのだ。
08月29日
20:08
2: U96
>倶利伽羅いちろうさん
歴史にもしもは禁物ですが、もう少しお付き合い頂きたいのです。