本型は戦小型または小型とも呼ばれます。太平洋の離島防衛用(結局使われなかった)として開戦直前に設計された局地防御用の小型潜水艦で、旧式化したL型潜水艦に取って代わるべく急速に建造する事が企図されていました。
昭和16年度の戦時計画でまず9隻(呂100~108)を建造、これらは昭和18年4月までに完成、さらに17年および18年のマル急計画で9隻(呂109~117)を建造、これらは昭和19年1月までに完成、計18隻が建造されました。
艦型は小型とはいっても外洋での行動上、艦首乾舷などを高めて凌波性を改善しており、主機はL型で好評だったビッカース式を改造した艦本式二四号六型ディーゼルで、電池は一号一五型120個を搭載しました。
魚雷発射管は中型と同じく艦首4門で、砲は装備せず、25ミリ連装機銃1基を装備しました。内殻の直径は3.87メートルと小さかったのですが、居住性を考えてフレオン式冷房機(1万キロカロリー)が装備され、司令塔も設けられ、潜望鏡は7メートル型を装備しました。
14隻が川崎造船所で建造し、6隻が戦時中に建設された泉州工場で建造され、ブロック建造方式により工期は1年で完成させていました。
本型は、大戦中、本来の目的である離島の航空基地防衛に使われる事はなく、主に中部太平洋方面にて哨戒線に配置され、ほとんど戦果のないまま、昭和20年2月ごろまでにすべてが戦没しました。
元来、外洋で行動するのに不適であったこの艦が強引に戦線に投入され、その作戦も柔軟性に欠けていた事もあり、不本意に終わった艦でした。
コメント
01月26日
21:47
1: 咲村珠樹
えーと、修正しますと、呂100〜108の計画年度は昭和14年(マル4)もしくは昭和15年の第2次追加(マル臨)、呂109〜117は昭和16年の戦時建造計画(マル急)です。
竣工は、呉工廠で昭和16年6月30日に起工した呂100の昭和17年9月23日から、昭和17年中に6隻(呂100〜103・106・107)、昭和18年に3隻(呂104・105・108)。
第2次分の竣工が昭和18年4月29日の呂109を皮切りに、昭和18年11月30日までに7隻(109〜115)昭和19年1月に2隻(116・117)だったかと。
建造の内訳は、呉工廠で4隻(100・103・106・107)、川崎重工神戸造船所で9隻(101・102・104・105・108〜111)昭和17年10月に開設された川崎重工泉州工場で4隻(112〜114・116)。
最終の呂117は、川崎で受注したものの神戸か泉州か、詳しくは断定できないようですね。
戦没は昭和18年5月14日の呂102を最初に、最後の呂109が昭和20年4月25日(沖縄南方)に戦没してるかなぁと思います。
タイプシップの呂100は、昭和18年11月25日、ブイン北水道で触雷し、沈没しています。
目立った戦果としては、呂108が昭和18年10月3日、ソロモン海域でアメリカ駆逐艦ヘンリー(DD391)を撃沈しています。
逆に呂112が昭和20年2月11日、翌12日に呂113が、同じアメリカ潜水艦バットフィッシュ(SS310)の雷撃で沈められています……そのバットフィッシュは、戦勲艦としてオクラホマ州で保存されているそうです。。
01月27日
17:33
2: U96
>咲村珠樹さん
修正ありがとうございます。
大塚好古氏によるとⅦ型Uボートよりわずかに排水量が少ないだけである。居住性を落として、乗員を55名にした結果、3直制も組めるようになったとの事です。うまく用兵できれば、成功した艦になったかもしれないですね。