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U96さんの日記

(Web全体に公開)

2014年
01月21日
20:45

日本潜水艦散開線

 散開とは、敵に対し距離を開いて潜水艦を配列することをいい、進撃散開・待敵散開・索敵散開・避敵散開の区分があります。このうち待敵散開は、散開した後その位置に留まって敵の来るのを待つことで、線散開(単線をもって構成)と面散開(複線をもって構成)の2種類があります。そのうち、単線をもって構成する線を「散開線」といいます。
 散開線を構成する潜水艦の間隔、すなわち散開距離は、おおむね25~30海里(約46~55キロ)で、さらに長い場合もありました。散開距離が小さすぎると、捜索範囲が狭くなり、大きすぎると目標がかぶさってきても、間を通過されてしまう可能性が生じます。したがって、状況に応じて適時適切な散開距離を設定する必要があります。
 太平洋戦争において、日本海軍は散開線の用法を繰り返し誤りました。
 第1は、ミッドウェー海戦です。1942年、多数の潜水艦でもって散開線を構成し、敵艦隊を捕捉する最初の例となるはずでしたが、潜水艦の準備が遅れ、所定期日までに散開線についたのは1隻だけでした。この海戦では、西方で散開線を作った後、東進して所定の配備につける掃航索敵とすべきでした。連合艦隊の作戦計画の失敗です。
 第2は、ギルバート作戦です。1943年11月、米空母機動部隊がギルバート諸島に現れ、タラワ・マキン両島に揚陸作戦を行ないました。結果、日本の守備隊は玉砕しました。この作戦に参加した日本潜水艦9隻のうち6隻が未帰還となり、帰還した3隻も損害を受けました。この作戦では、先遣部隊の作戦指導が問題となりました。問題は、「毎日、散開線を変更している」点と「しばしば敵情報告を求めており、電波輻射に対する関心がない」点でした。生還した伊174潜の艦長、南部伸清少佐は、戦後、「この頻繁な散開線移動は本当に腹がたった」と回想しております。
 第3は、「あ」号作戦です。1944年5月の同作戦では、決戦場面を西カロリン方面に選定しました。そして潜水艦の散開配備はトラック島とニューアイランド島間に集中しました。そのひとつに「ナ」散開線がありました。呂100型潜水艦7隻が配備についたのですが、米軍は諸情報から散開線を割り出し、ハンター・キラー・グループ(駆逐艦3隻)を派遣しました。そして1隻を探知した後、芋づる式に5隻を撃沈しました。米軍の対潜能力が飛躍的に向上していることを十分に認識しないまま、散開線によって敵を捕捉するという従来の用法に固執した結果でした。

コメント

2014年
01月21日
22:27

あ号作戦ってそういう作戦だったんですなー(´・ω・`)
艦これの任務(クエスト)で毎週お世話になってますw

2014年
01月22日
06:32

2: U96

>炊飯器@劇場版なのは2nd BD/DVD 絶賛発売中!!さん
日本が頼みとしたアウトレンジ戦法は米軍の近接信管によって打ち砕かれてしまいました。散開線も1隻ばれると、みんな位置がばれてしまいます。太平洋戦争の転換点をミッドウェーにするかマリアナにするか論争がありますが、近年はマリアナと言われるようになりました。