九七式軽装甲車は九四式軽装甲車の改修型を基本に、武装を三七ミリ砲に強化し、空冷ディーゼル・エンジンに換装したものです。池貝自動車(現在の小松製作所川崎工場)が試作を担当し、試作車は二形式がつくられました。一つは前作九四式軽装甲車と同様、前部エンジン、後部出入り扉タイプ、もう一つは後部エンジンタイプです。前部エンジンタイプにすると、エンジンの高さに制限を受け、空冷ディーゼルが収納できないため、後部エンジンタイプとなりました。もっともディーゼルを操縦席と並列に配置したら、乗員はその熱と騒音と震動でとても操縦などできる状態ではなかったでしょう。
池貝自動車は早くからディーゼルエンジンの研究を行っており、実用化したのも早かったのです。性能的には自信のあった九七式中戦車用エンジンでは三菱に負け不採用となりました。その最大の理由は性能よりむしろ「戦車は三菱と日立につくらせる」という軍の方針に阻まれたことによります。池貝は中戦車の仇を軽装甲車でとったことになります。
フランスはAMR33(九四式軽装甲車のモデル)の後、武装強化型のAMR35を出しました。九七式軽装甲車はこの35を手本にしました。したがって、九七式とAMR35はサイズ、エンジン出力ともほぼ同一です。当時はイギリスもフランスも戦車隊用の軽戦車とは別にこの種の豆戦車を多数装備していました。そしてドイツのⅠ号戦車も九七式とほぼ同サイズでした。九七式軽装甲車は後に脆弱だの、九五式軽戦車との二重装備とか批判されますが、出現当時は列国の趨勢に合致し、しかもその中でも性能的に互角の戦車でした。
車体は九四式軽装甲車の改修型を引き継ぎながらも、新規に設計されたもので九四式に比べ、少し大型化しています。武装強化の爲、、砲塔も大型化されました。車体形状には避弾経始が徹底的に配慮され、車体前方傾斜部からは突起物や盛り上がり部は排除され、側面装甲板には傾斜がつけられ、操縦席は曲面で構成されました。装甲わずか12mmの豆戦車にここまで避弾経始を取り入れてどれだけのメリットがあったかは不明です。ただ生産性はかなり阻害されました。
本車の武装には二種類あり、一つは九四式三七戦車砲を装備し、もう一つは機関銃を装備しました。通常、小隊長車には装砲車が、それ以外は装銃車が充当されました。形態は九四式の発達型ですが、運用上は九二式重装甲車の後続車でした。騎兵用装甲車として開発された九二式重装甲車は小型ながら、旋回銃塔、溶接構造、空冷エンジンなど技術的には意欲的な車両でしたが、構造が脆弱、狭い車体に三名の乗員では窮屈、重武装ながら13mm機関銃では威力が中途半端といった欠点がありました。それを成功作九四式軽装甲車の設計を取り入れ全面的に改修したにが、この九七式装甲車でした。
生産開始は昭和14年で、同年に200輌以上が、翌年には300輌近くがつくられました。しかし、昭和16年には生産が急減し、昭和17年の35輌をもって生産は終了しました。合計で約570輌が生産されました。
九七式軽装甲車は主に捜索連隊に装備されました。支那事変前までは、日本の歩兵師団には騎兵連隊がありました。昭和12年以降は次第に捜索隊(または捜索連隊)に改編されていきました。改編に伴い、馬から装甲車への転換が推進されました。当初編制表上は軽戦車となっていましたが、実際は九二式重装甲車が配属されました。そして昭和14年以降は九七式軽装甲車が充当されました。捜索連隊は、時期により編制は異なりますが、装甲車二個中隊と乗車二個中隊から編成され、装甲車中隊は九七式軽装甲車八輌が定数でした。なお昭和17年以降に編成された戦車師団捜索隊は実質的には戦車連(大)隊で、軽戦車と中戦車で編成され、軽装甲車は配属されていません。
九七式軽装甲車は日本の装軌式装甲車の頂点に立つ傑作でした。巧みに避弾経始を取り入れた外形、軽戦車なみの戦闘力、車体は軽量でエンジン馬力が大きく、機動性は軽戦車よりむしろ優れていました。欠点は、下部転輪が弱く、ギア、懸架バネも折損し易いこと。履帯は脱落し易く、信地旋回ができず、最小旋回半径は5メートルを要すること。電気系統にもトラブルが多く、稼働率は低かった。こんな小さい車体に空冷ディ-ゼルエンジンを積んだのも誤りでした。この小さな車体の中で騒音と震動の大きなディーゼルと同居する乗員の苦労は並大抵のものではありませんでした。
カタログデータだけを比較すると、九五式軽戦車より九七式軽装甲車が優れていたということになりますが、この豆戦車では長距離移動は車体構造の耐久性から見て困難です。また、乗員2名では長時間の行動も無理です。戦場に予め集結しておいて、数時間ないし数日の戦闘に使うのが本来の使い方で、機動戦車にはなりえません。欠点も多いが基本的には性能は優秀な装軌車で、各種運搬車の母体ともなりました。九八式装甲運搬車「ソダ」車、一○○式挺進観測車「テレ」などです。しかし、太平洋戦争が始まると、活躍できたのはせいぜいマレー進攻作戦くらいで、その後は軽装甲車などという中途半端な戦車の活躍の余地はありませんでした。
諸元(機関銃搭載タイプ):重量4.3トン、全長3.7メートル、全幅1.9メートル、全高1.8メートル、装甲12ミリ、エンジン空冷ディーゼル65馬力、最大速度40キロ/時、乗員2名、武装九七式車載重機1梃または九四式37ミリ戦車砲1門