海大Ⅵ型a(伊68、伊69、伊69、伊70、伊71、伊72、伊73)に搭載された主機(もとき:エンジンのこと)は日本海軍が開発した小型・軽量・大出力機関で、この主機の開発については、ロンドン条約により日本海軍の潜水艦建造量が大きく制限される為、個艦の威力増大が求められると同時に、漸減作戦の遂行上から水上速力24ノットの実現が目指され、大出力潜水艦用ディーゼルの開発が必要とされたからでした。
一定の重量・容積の範囲では、2サイクル複動方式が理論上最も大出力を発揮するのに適しているので、昭和3~4年末に60型機械(単気筒)の試験を行い、昭和4~5年に単47型機械の実験を開始しました。
単47型機械は、海大型に装備しうる大きさに諸元を定めて設計した単気筒でした。
当時、潜水艦用大出力ディーゼル機関を独力で開発する技術はまだ日本には無く、昭和5年3月に開催された技術会議で「ズルツァー社が新たに計画している9Q54型ディーゼル機関の購入」「MAN社からZ型複動ディ-ゼル機関の試験購入」が検討されて、これらの技術を吸収して試験中のディーゼル機関に技術を取り入れ、開発の促進をするという事が決定されたのですが、その後開発予算が削減されて、メーカー側の言い値に折り合わず、外国からの技術導入を断念して、昭和5年9月には日本海軍独自で大出力の2サイクル複動空気噴射式ディーゼル機関を開発する方針が定められました。
これにより、本格的な開発が始まり、昭和5年末より4-47型機械(4気筒)を試作し、6年4月から試験を開始しましたが、トラブルが続出し、これを何とか克服して6年末に試験を終了しました。
この成果に基づいて実艦搭載用の1號ディーゼルが設計され、昭和7年に第1號機を製作、同年11月に耐久試験を終了、ここに国産複動ディーゼル機関の正式採用が実現しました。
海大Ⅵ型aはこの1號ディーゼルを搭載したもので、各艦は公試において24.02ノットを出し、日本海軍が念願とした水上高速力の発揮が可能となりました。
しかしながら、この新型ディーゼル機関も採用を急ぎ過ぎて、未完成の部分が残され、搭載艦の各艦は就役後に、架構溶接部の亀裂やピストン棒接続ネジの折損、シリンダーの腐食や亀裂等の重大なトラブルが発生し、それが解決したのは昭和13年以降でした。
このトラブルに関しては、各パーツの製造技術の低さが主な原因で、溶接・鋳造などの基礎技術の未熟さが引き起こした結果でした。
当時の日本は、設計が優秀でも物を作る現場の技術が追いついていない事が数多く見受けられました。
太平洋戦争が始まると、このような主機は作られなくなり、MAN社式の4サイクルディーゼルが搭載されるようになりました。2サイクル複動式ディ-ゼルは時代が生んだ徒花だったのです。
http://www.warbirds.jp/truth/ijn-sub.html