第二次大戦中、イタリアの魚雷艇MAS艇は、その優秀さから有名でした。搭載エンジンはイソッタフラスキーニ社(Isotta Fraschini)W型18気筒水冷ガソリンエンジンでした。
このエンジンを、三菱重工エンジン製作部門(丸子機器製作所)で分解スケッチし海軍規格に図面化したものが、海軍呼称「七一号六型」です。三菱ではYWGと呼んでいました。
七一号六型に関する記録はほとんど残っていません。わずかに渋谷文庫・生産技術協会・旧海軍資料の調査項目「魚雷艇七一号六型九○○馬力ガソリン機械調達の経過」と三菱川崎機器製作所機械工場長・佐竹義利氏の「揺籃期の扶桑川機の回想」、艦政本部五部発行(昭和19年5月)秘書類「七一号六型内火機械・構造並に取扱説明書」が残されているだけです。
七一号六型エンジンに関し、佐竹氏の回想記にはこうあります…「このエンジンは、水冷式W型一八気筒一○○○馬力の航空エンジンに逆転機とセルモーターをつけて舶用に改造した八七オクタンガソリンを燃料とするものであって、イタリアのイソタフラスキニー社製であった。これを艦政本部の命によりスケッチし、最初は丸子で部品を造り川崎で組み立て試運転をした。丁度十七年二月十一日紀元節の朝、五○時間の試運転を完了して万歳を唱えたものであった」。
昭和16年度戦時建造計画に予算計上された魚雷艇「魚雷艇:甲、建造番号:六○○~六一七、隻数一八(内七隻は建造中止)」の主機関として、このエンジンが登録されています。
旧海軍資料によれば「川崎機器に七一号六型エンジンの製造設備拡充を命じたのは昭和十七年六月であった。川崎機器で初めて実用機が完成したのは昭和十八年二月、同年十月頃までは月産三~四台に過ぎなかった」とあります。
ガダルカナル島攻防以後、魚雷艇の要望は加速度的に高まり、年産480台の施設拡充の示達が出され、三菱茨城機器製作所の新設(官設民営)を最優先工事として進められました。
しかしながら、労働力や物資不足に加え工作機械、特に航空内燃機加工用機器は、すでに航空機部門すら充足出来ないほどに逼迫していました。三菱一社では量産設備を整備することは不可能だったのです。
海軍艦政本部は五部の統制下の官民工場を動員し、部品加工を分担させ、完成部品を川崎機器製作所に集めました。川崎機器製作所でも主要部品を製作し、エンジン組み立てと試運転を行なう完成工場の役割を担当しました。
部品製作に参加したメーカーは約50に及び、横須賀、呉、舞鶴、佐世保の各工廠、三菱長崎、神戸、横浜の各造船所、新潟、池貝、神戸製鋼、阪神内燃機、久保田鉄工、栗本鉄工等の造機系の他、日立亀有工場や長谷川歯車などに歯車系を、園池や津上製作所等に治工具、ピストンやピストンリング、発電機、気化器などが各専門メーカーに分割発注されました。
七一号六型エンジンの総生産数340基の内272基が工廠および造船所に送られて、魚雷艇に搭載されました。残りの消息は終戦時の混乱により不明です。
コメント
07月25日
23:54
1: 半木 糺
こうして見ると、三菱を筆頭に戦争中の技術は戦後の復興にあらゆるところで活かされているのがわかりますね。
07月26日
00:42
2: うちだたかひろ
大陸に製造拠点を作らなかったのが失敗の一因だな・・・
07月26日
04:49
3: U96
>半木 糺さん
はい。下請け企業を育てたのが、戦後の復興に役立ちました。MAS艇は参考輸入されたのですが、量産向きでないと判断され、独自開発となりました。先人の苦労が思いやられます。
07月26日
05:00
4: U96
>うちだたかひろさん
大陸の国営工廠を接収して小火器の量産は行なわれたはずですが、エンジンのようなものは、精密加工機器の不足により無理だったと思います。兵頭二十八氏が「日本は外国に借金をすることを嫌い、最新の精密加工機器を輸入せず、中古で熟練職人の技術に頼っていた。実際は戦争になったら、踏み倒すつもりで外国に借金をするべきだったのだ」と言っております。
07月26日
07:14
5: 退会済ユーザー
戦略は重要~~~
技術も重要~~~
07月26日
12:52
6: うちだたかひろ
よくもわるくも国際慣れしてなかったんだなあ。
07月26日
19:51
7: U96
>倶利伽羅いちろうさん
同感ですね。
もっと早く魚雷艇の重要性に気づくべきでしたし、デッドコピーのエンジンでは40ノットの性能が出せませんでした。素直にライセンス生産すべきだったのです。
07月26日
19:57
8: U96
>うちだたかひろさん
4年も複数の先進国相手に戦うことなんて想定外だったのですね。ちなみに第二次大戦で婦人を軍需工場に動員しなかったのは日本だけだったそうです。