それまでの潜水艦の搭載機であった。「九六式小型水偵」にかわって、昭和12年(1937年)に海軍が試作を決定したのが零式小型水偵でした。設計は海軍技術工廠で行われました。
それまでの小型水偵が複葉機だったのに対して、零式小型水偵は単葉機である事が前提でした。完成後は巡潜の甲型、乙型などに搭載することが予定されていたので、「九六式小型水偵」よりもコンパクトで、高性能を要求されました。開発には2年を要し、正式採用されたのが昭和15年(1940年)12月でした。機体製造は渡辺鉄工所(のちの九州飛行機)が担当しました。
狭い潜水艦に収容するため、垂直尾翼は低く抑えられ、これが機体の安定性を欠くことになりました。また、主翼は木金混交で、一部布張りになっているため、機体の強度は充分とはいえませんでした。小型化のため、燃料の搭載量も制限を受け、航続距離は882キロに留まりました。
完成と同時に潜水艦に搭載されて、太平洋ばかりでなくインド洋にも遠征し、昭和17年(1942年)9月にアメリカ本土を爆撃するという戦果をあげました。
コメント
10月26日
01:34
1: 咲村珠樹
藤田信雄飛曹長ですね。
戦後、土浦市に居住し、爆撃したオレゴン州に招待された際にもらった記念品や、レーガン大統領からもらった記念品等が陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地(旧:霞ヶ浦海軍航空隊)に展示されています。
10月26日
14:24
2: U96
>咲村珠樹さん
レーガン大統領から記念品をもらうとはすごいですね。ヒトラーがアングロサクソン人は自分達に痛打を与えた者しか尊敬しないと言っておりましたが、本当のようですね。ありがとうございました。