海大型(海軍大型)としては初めての量産タイプである海大三型の建造が決定した大正11年(1922年)の艦隊建造計画は、この年に発効されたワシントン軍縮条約の影響を受けております。条約により、予定されていた海大型の建造は1隻減って12隻となり、また、条約制限外の艦艇は軍艦建造費をあてて建造を続行、さらに条約発効以降に建造される艦については補助艦艇建造費があてられることになりました。
そのため、同じ海大三型でも条約発効以前と以降の艦には多少の設計上の変更も生じて、海大三型aと海大三型b(艦首を鋭角にして凌波性を高めた)の2タイプが生まれました。このうち海大三型aは4隻が建造され、昭和2年(1927年)3月30日に呉海軍工廠にて竣工した「伊153」はその1番艦です。ちなみに竣工当時の名称は「伊53」でした。太平洋戦争に突入して潜水艦部隊の再編が行われ、予備役になってから「伊153」と艦名が変更、他、すべての姉妹艦にも100がついて3ケタの艦名になりました。
海大三型の性能ですが、主機(もとき)はやや信頼性に欠けるといわれるズルツァー式ディーゼルエンジンですが、かなり改良が進んで安定していました。水上速力は20ノット、水中速力は8ノットとそれまでの二型より多少遅くなっているのですが、これは安全性と信頼性を考慮したものです。これでも他国の最新型潜水艦と比較しても速度では負けませんでした。また、内殻板は一型や二型よりも3ミリほど厚さを増した15.9ミリになり、これによって安全深度は60メートルまで増大。二型の45メートルより潜水性能は増大しております。このほか、ダイバーズロックや二重閉鎖ハッチの設置、メインタンクの細分化など安全性を考慮して多くの新機軸が採用されています。また、司令塔構造を横置きにすることで、スペースを有効に活用できるようにしました。
「伊153」は太平洋戦争以前は呉鎮守府に所属していましたが、戦争突入間際の昭和16年(1941年)12月1日、潜水艦隊も戦時編成に再編され、第四潜水戦隊第一八潜水隊に所属になりました。最新鋭の巡潜型はハワイやアメリカ西海岸方面への偵察に使われたのですが、すでに旧式化していた初期の海大型を多く含むこの部隊は、主に日本近海や東南アジアなどの方面で使われることになります。
「伊153」は昭和17年(1942年)2月7日ジャワ海南方面で商船1隻を撃沈しました。それを唯一の戦果とし、大戦中(3月)に予備艦になり、呉鎮守府で練習用になりました。
すでに潜水艦建造の重点は、海大型から次世代の巡潜型に移行していました。海大型は水上艦艇に追随できるよう、水上速力の向上に固執しすぎたために、艦隊作戦用の潜水艦としては、その他の能力に不足が多かったのです。とくに魚雷搭載本数の少なさと、水中運動性能の低さは、海軍でも問題視されていたそうです。
しかし、海大型と同じコンセプトで設計されたアメリカのガトー型が通商破壊に大活躍したことから海大三型の活躍の余地はあったでしょう。ついでながら、「伊153」への艦名変更で、巡潜型の丙型改だった艦が「伊53」となり話がややこしくなっております。
「伊153」は昭和21年(1946年)5月、アメリカ軍の手により伊予灘にて海没処分されました。
コメント
10月19日
04:45
1: あおねこ
今見ても
よく当時こういうものが作れたなあという感想
10月19日
17:14
2: U96
>あおねこさん
トンあたり戦艦の3倍のコストがかかったそうです。