日本の機関技術は外国技術を基礎にして発展しました。波10をフランスから輸入したときからディーゼル・エンジンを採用しましたが、この1300馬力のシュナイダー型は失敗作でした。
ドイツは機械技術でも優秀だったので、第一次大戦で活躍したマン社および直後に開発されたスイスのズルザー社製(以下ラ式、ズ式という。マン社なのにラ式というのはラウシェンバッハを経由して購入していたため)のエンジンを輸入しました。他にライセンス生産していた英国L型潜水艦のビッカース社(ビ式)の改良型の製作も続けていました。
海軍独自設計第一号の呂11が19ノットの世界記録を出したエンジンも輸入のズ式1300馬力で、船体を無理にスリム化して実現しました。大正9年でした。
その後、これら三形式のエンジンは日本で改善され、実艦に装備されました。ズ式二号は呂28など19隻、三号3400馬力は伊60など13隻、ラ式一号は機雷潜に、二号3000馬力は伊1~伊5など8隻、合計44隻です。ビ式18隻をふくめ純日本製は1台もありませんでした。
改良時代の10年間は順調ではありませんでした。ラ式は強烈な危険振動(ディーゼルエンジンはある回転数になると振動を起こす宿命にあります)、ビ式は鈍重、ズ式は冷却海水の漏洩、ピストンヘッドの焼損、入子首部の亀裂など大きな故障が続発しました。よって、昭和のはじめ、マン社の技師を招聘し、純国産化の道を探ることになりました。
国産化の動きは、昭和3年の六○型機械、四年の単動四七型、六年には複動の四:四七型機械を研究試作しました。昭和9年、純国産の「艦本式一号内燃機械」5000馬力が完成、伊68に搭載されました。
伊68は試験で23.8ノットを出しおおむね良好でしたが、改善すべき点も多かったです。一号の要目はシリンダー径470ミリ、行程490ミリ、長さ8.9メートル、一基の重さ57トンでした。
昭和10年、軍縮条約の期限が切れ、大型潜水艦の建造、大馬力エンジンの製作が要求され、「二号内燃機械」がつくられました。
シリンダー直径は同じですが10筒を積み、ピストン行程530ミリ、7000馬力、本体重量98トン、甲型潜水艦では機関重量380トンと心臓が肥大化しました。それを支える船体は大型化しました。
ちなみに日本の巡潜14000馬力、23.5ノットに対し、米国は6000馬力、19.5ノットでした。
そして日米開戦。5年間で20基、改良半ばの量産のできない艦本二号体制を救ったのが「艦本二十二号機械」でした。
昭和5年海中型エンジンを目標に単動四衝機械の試作がおこなわれ、8年ごろにめどがつき、二十二号として民間に製造が委託されました。このころ、マン社から輸入した過給気装置付きを二十三号と命名、駆潜艇用、乙八型は潜輸(伊361)用として三菱横浜で量産。そして二つのエンジンの長所を取り入れたのが、二十二号十型過給気付きの2600馬力です。
呂35型をはじめ伊251(航空燃料輸送艦)、巡潜甲・乙の改型、伊400型などに搭載されました。巡潜改型は速力が23.5から17,7ノットに落ちましたが、航続距離は14000から20000浬に伸びました。
なお、ビ式は水上艦の発電機にも使われていましたが、改良して艦本二十四号として採用、呂100型のエンジン1000馬力になりました。。中速400馬力は潜高小(波201型)、潜輸小用に採用されました。
昭和19年の潜高(伊201型)は水中高速を狙い、機械重量をさらに軽減する必要を生じ、マン社から輸入のうえ国産化しました。このエンジンはヨーロッパ横断鉄道用に開発されたもので、各部材に大量のアルミがつかわれており、過給気装置付きの1500馬力でした。従来のエンジンの馬力当たりの重量が26~22キロなのに12キロと著しく軽いものでした。
伊202で運転中、クランク室からシャフトが足を出す事故が起こりましたが、材質と加工の不良、極限的設計が原因と言われました。