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U96さんの日記

(Web全体に公開)

2013年
02月03日
22:37

三菱 金星エンジン

 三菱を代表する航空エンジンは金星です。金星のボア、ストロークを短縮したのが瑞星で、零戦の1号機、2号機に搭載されました。金星のボア、ストロークを拡大したものが火星で、雷電に搭載されました。

 三菱では生産効率を上げる見地から、社内で製作している発動機の種類を減らして、今後の生産の基本形式となる発動機の寸法を決めるため、これまで製造した発動機の比較をしました。
 綿密な作業の結果、形式を一四気筒複列とし、気筒径一四○mm、行程一五○mmのエンジンを先行して設計、製作することにしました。これは当時の陸海軍機の試作機が要求していた馬力が一○○○馬力前後だった事が、この選定に影響を与えたものと思われます。
 
 この新発動機が後の金星発動機を産んだ母体となりました。このエンジンは社内呼称A8と呼ばれました。

 新発動機の設計を進めるにあたって、深尾部長は世界一のエンジンを実現するため自ら陣頭に立ち指揮し、各主要部分の設計に当たって、担当責任者を置くことにしました。
 従来の空冷発動機の主任であった酒光義一は気筒を含む主機中央部、辻猛三は減速装置、井口一男は過給器を含む発動機後部補機と動力艤装を分担することにし、それぞれに藤原光男、佐々木一夫、西沢弘、谷泰夫、荘村正夫、大岩嘉七郎、降旗喜平、黒川勝三、小山耕一、法月忠五郎、角田鼎、榊原裕、加太光邦、鬼頭秀三、浅生重太、園田豊、泉一鑑、曽我部正幸などの有力技師たちを配置する体制を敷きました。これに伴って職制も縦割り方式に変更されました。
 しかもすでに手掛けていたA4、A5、A6、A7に加えて水冷式のB2、B3、B4、B5などの開発が進行中で、これらの作業も手を緩めることなく、小室課長に指揮を取らせることになりました。

 作業が開始されたのは昭和九年の秋でした。苦難の連続であったA4では、気筒の冷却を良くするために前後列の気筒共に排気孔を発動機前方に開孔させました。
 しかし、これはかえって致命的な欠陥につながり、機体搭載後の筒温上昇と装備の不便さの原因となってしまいました。この欠点を改善するため、新発動機では、前後列共に排気孔を後面に開口させ、発動機の前後部間に風圧差を与えるための導風板を置いて気筒フィンの間を流れる空気速度を上げ、冷却効果を向上させることにしました。この部の改造の際に深尾部長は、「空気を直接吹き付けて冷却しようとするのは間違っている。空気を流すようにして冷やすのが正しい」と部下に諭したそうです。

 この他にも外国の発動機の優れた所が数多く取り入れられました。
 すなわち、気筒頭はアメリカ式、気筒にはイスパノの窒化を採用し、クランク・シャフトはヨーロッパ式の一体型、主接合棒は組立式、前後列に分かれていたカムをアームストロング社を源流とするグノーム発動機と同じように発動機前後にまとめて発動機前部にまとめて傾斜カムとし、減速装置はフランスのファルマン式、過給機はアメリカのライト式としました。さらに、ボールベアリングはクランク・シャフトに使用する四個のみとし、その他は鉛ブロンズのプレーンベアリングを使うことになりました。

 この頃、ボールベアリングに替えてプレーンベアリングを使う構造は世界的に見ても非常に画期的なものでしたが、これは信頼性の向上と、最も簡潔な構造とすることを狙ったものでした。

 本格的な設計作業は、昭和一○年一二月からの突貫工事でした。正月休みまで後一日となり、ほとんど設計図が完了した日の昼過ぎ、いつものように深尾部長が現れ、佐々木技師の肩ごしにじっと眺め込んでいました。
 しばらくして、深尾部長は鉛筆を取り、フリーハンドで、前後列シリンダーのセンターラインの間隔を少しばかり(後で計ってみるとちょうど六mmでした)広げて、「佐々木君、これでやり直し給え」と命じました。

 酒光主任は「そんなことをすると、重量が増すことになってまずい」と深尾部長の部屋に出向いていきましたが、やがて戻ってきて「やっぱり駄目だった。すまないが、やり直すほかないよ」となりました。休みは元旦一日だけになりました。
 
 このわずかに六mmの変更は、その効果きわめて大きく、エンジンの骨格となるクランク軸のセンターウェブを厚くすることができました。当時はまだ前後列に中間軸受を置く構想はまとまっておらず、後の金星四型(A8-C)から中間軸受を新たに設けるようになりました。

 この変更により軸系の剛性が増大したことによって軸振動が小さくなり、クランク軸受の焼損を防ぐと共に、A4の時の手入れの窮屈さを解消することができ、シリンダー設計がきわめて容易になって冷却性が向上するなど、エンジン全体の信頼性や整備の容易さに大いに寄与することになりました。設計変更に泣かされた担当者たちも深尾部長の慧眼に感服しました。
 昭和一一年三月には、早くも初号機の試運転が完了しました。

 この新発動機は、社内呼称A8-aであり、金星三型と呼ばれ、その公称馬力は七三○馬力でした。海軍は空技廠に命じて審査試験を行い、一挙に一○○基近い注文を出しました。

コメント

2013年
02月03日
23:58

こんばんは。
うーん、難しい…………
でも、こんな大変な苦労と研究、努力があったからこそ!なんですよね。形に残る仕事って個人的に憧れます。
しかし、U96さんはいっぱい情報知っていて相変わらず凄いです

2013年
02月04日
06:43

2: U96

>ももすけさん
私は技術史に興味があります。
自宅近くに図書館があり、そこで資料を取り寄せてもらっております。

2013年
02月04日
14:00

機械屋の自分としては、こういうのを見たり聞いたりすると、テンションが上がります。(`・ω・´)

2013年
02月04日
17:49

4: U96

>あるとさん
ありがとうございます・・・そう言って頂けると書いた甲斐があります。これからも技術史の日記をご提供していきますね(^▽^)!

2013年
02月04日
18:52

5: Souri

航空用レシプロはえも言われぬ不気味さがありますね・・・

2013年
02月04日
19:57

6: U96

>Souriさん
・・・そうですか・・・私は造形の妙を感じます。

2013年
02月05日
00:52

結果的に設計で余裕を持った金星は、生産現場で歩留まりよく安定して高性能を発揮できたのですね。
昭和飛行機でダグラスDC-3(輸送機型のC-47スカイトレインを含む)を国産化した零式輸送機に採用され、オリジナルのDC-3を凌駕する性能を得たり、エンジン生産が停滞して「首なし機体」が並んだ三式戦飛燕II型(キ61-II)の代替エンジンとして指名され、傑作機となった五式戦(キ100)を生み出したりと、いわば「名機の陰に金星あり」という存在ですね。

その他の金星搭載機としては、九六陸攻や九九艦爆などがあります。

2013年
02月05日
05:53

8: U96

>咲村珠樹さん
解説ありがとうございます。

まだまだ「金星」ネタはあります。
ご期待下さい!