三式中戦車チヌの試作は昭和十九年六月に始められ、同年九月には三菱重工で二両の試作車が完成し、各種実用試験を早急に済ませ、同年十一月には生産が開始されております。
約二○○両が生産され、全ての車両が本土決戦用として内地の戦車部隊に配備されました。
三式チヌは、その車体設計に関しては一式チヘ、砲塔設計では五式チリと類似点の多い車両でした。
三式チヌの車体は九七式中戦車チハの系統に属し、直接的には昭和十八年に完成した一式チヘの車体を流用していました。しかし一式チヘ車体もまた昭和十七年に完成した一式砲戦車ホイ(戦車支援車として七五mm山砲を搭載、量産せず。後にタ弾の導入にともない対戦車戦闘車両として二式砲戦車ホイの名称で生産)車体を流用したもので、三式チヌの車体は昭和十七年完成のやや古い設計といえました。
正面五○mmの装甲厚は、一式ホイが完成した昭和十七年の時点ではまずまずの防御力でしたが、三式チヌの量産が開始された昭和19年後半では貧弱といえ、米軍のM-4シャーマン戦車の七五mm砲に対しては防御力が不足していました。
三式チヌの車体、砲塔装甲は、主として陸軍の装甲鈑規格でいう防弾鋼三種(三種BK)で計画されていました。三種BKは表面侵炭を実施しない非侵炭甲鈑で、ある程度の厚みがあれば表面侵炭を施した防弾鋼第二種(二種BK)と同等の防御力を発揮可能でした。三種BKは手間のかかる侵炭処理(鋼板に味噌を塗り、電気炉で熱し、菜種油で冷却すると炭素Cが表面に吸着する)を必要としないため、コスト面では二種BKより優れていました。
作家の司馬遼太郎氏がエッセイ「戦車・この憂鬱な乗物」で紹介した三式チヌの装甲に対する批判について検討してみましょう。
旧式の九七式チハには「ヤスリがかからない」にも関わらず、三式チヌの装甲には「ヤスリがかかった」ことが、司馬氏の不信の根本にありました。
しかし既に述べたように、三種BKは表面に侵炭処理を施しておらず、かつ脱炭により甲鈑表面にはごく薄く、硬度の低い層が分布していました。表面の脱炭層の硬度は、ブリネル硬度で四五○程度しかなく、硬度五○○程度までは「目がたつ」と思われる金工用のヤスリで切削可能であったと思われます。もちろん、脱炭層の直下では甲鈑の硬度は六○○を超えていて、甲鈑としての必要な性能は保有していました。
三式チヌの基本車体構造は、鋼柱などの骨組みに防弾鋼の外板をかぶせるといった立体構造で、全体にわたって溶接を採用していますが、前方の戦車砲取付部や、車体銃配置部、または操縦手の視察窓、またはその前方の点検孔部などはリベット付けを取り入れていて、また分解修理が必要な個所はボルト止めになっていました。
車体構造で、水密部分は地上から約一mの高さになっており、車内は戦闘室とエンジンを置く機関室とに分かれていました。その間の隔壁はエンジン熱が直接乗員室に伝わらないよう黄銅線芯入りのアスベストと十五センチの黄銅板で作られ、この中間に耐火性防音材を充填して、エンジンの騒音が直接戦闘室に入らないよう工夫されていました。
実際に戦車内での乗員行動は狭い上に騒音が大きく、またエンジンの熱で背中が熱いなどがあって乗員は予想以上の苦労を強いられていたからです。
三式チヌのエンジン下部の底板には、点検窓のほかオイルやタンクなどの排油の排出孔も設けられていました。
・・・(つづく)
コメント
01月04日
21:14
1: 咲村珠樹
戦車砲取り付け部、車体銃配置部、視察窓のリベット止めは、この写真で確認できるかと。
あと、ご覧の通り前面上部の接合部もリベットが使われていますね。
陸自土浦駐屯地に唯一残る実車の中を覗き込むと、機器の大部分は失われていますが、狭いことは確かです。
砲塔部はこれで2人入るかと思うと……。
01月04日
22:43
2: U96
>咲村珠樹さん
中を覗かせてもらえるなんていいですね。
これを5~6人で運用しようなんて狭いのに大変ですね。