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U96さんの日記

(Web全体に公開)

2012年
10月14日
23:59

零戦 もしも20ミリでなく12.7ミリを選択していたら

 坂井三郎氏が初速の遅い20mm機銃は、旋回Gのかかっているときに撃つと小便弾になり当らず、自分は7.7mm機銃だけで、ほとんどの敵を墜としていたと語っております。20mmエリコンは射距離500mで弾道が4.9m低下する(昭和15年8月「実戦ヨリ得タル射手心得」防研所蔵)とのことです。
 東京、恵比寿の防研にある「和田秀穂史料」(日付は不明ですが、一部は大正12年末頃のものと判ります)には、「ダルヌ式七粍(ミリ)七機銃」(固定と旋回、旋回はおそらくF5飛行艇用)、「短五糎(サンチ)五瞰射砲」、「短七糎(サンチ)五瞰射砲」、「毘式十二粍機銃」(この3種はおそらく飛行船用)、7.7mmの「モーター機銃」(戦闘機用)、「毘式三十七粍機砲」(F5飛行艇用と地対空用)を、それぞれ試験しようとしていたことが見えます。海軍の航空用12.7mmのテストは存外に早かったといえます。
 昭和2年には、このヴィッカーズの12.7mm機銃を大村航空隊で機上実験しています。その弾道が7.7mmや20mmよりも良好であることも認めていました。焼夷弾と曳跟弾(えいこんだん:トレイサーのこと)の性能も素晴らしいというコメントまで残っております。
 そのときの数値は、初速777m/秒、サイクルレート340~600発/分(二段切り換え式?)、重量23.6kgとのことです。
 また参考までに、東京市役所訳編「支那防空知識」(原1938年、昭和14年訳刊)を引けば、ずっと後の高射機関銃型のヴィッカーズ12.7mmで、914m/秒、450発/分、有効射程1200m以下、最大水平距離5430m、となっています。
 日本海軍が戦闘機の機首固定用の13mm級機銃の研究に着手したのも、そんなに遅くありませんでした。支那事変勃発後の昭和13年に、早くもイタリアからブレダ社製12.7mm機銃を参考輸入しています。そして、昭和15年頭にかけて、同12.7mm機銃とその同調装置、また同じくイタリアのイソダ社の12.7mm機銃と弾薬が、海軍航本内でテストを受けているのです。
 ただ、このクラスの高性能自動火器は、7.7mmのようにやたらな連続射撃をしたら、加熱のために銃身寿命があっという間に尽きてしまうのだという現実に、日本の造兵界は、なかなかなじめなかったようです。陸軍も、意識的に冷却インターバルをおかなければならぬような「重機関銃」には、初め好感を持ちませんでした。12.7~13.2mm級だと、最後には米軍機のように、多銃主義を採用する必要があると思われて、採用がためらわれてしまったのか…とも想像し得えます。
 最終的に、昭和19年になって、機首右側の7.7mm機銃を、13.2mm機銃にした「零戦五二型乙」が登場しました。これで7.7mmは無意味だと悟られて、次の「零戦五二型丙」では、機首左側の7.7mm機銃は撤廃され、左右の主翼にも、20mm機銃の外側に、、13.2mm機銃が増設されております。
 この13.2mm機銃は、正式には「三式13ミリ固定機銃」といわれます。
 銃本体と薬莢は、ブラウニングの12.7mmM2の忠実なコピーでした。ただ、艦載のホチキス系の13.2mm高角機銃と多少は生産上の共通性を持たせようとの考えから、弾丸と銃身内径だけを、無理に13.2mmに直していました。だから、弾薬包は一見すると米軍の12.7mm実包にそっくりなのですが、むろん互換性はありません。
 初速800m/秒。
 7.7mm×2をやめて13.2mm×1に換えてあった零戦五二型丙のパイロットの香取頴男(かとりひでお)氏は、これを撃つと、初速が大きいから気持ちがいいほど当ったと証言しております。
 実測によれば、この13.2mm機銃の射弾は、500メートル先では256cm沈んだといわれます。とすれば、決して敵のブラウニング12.7mm機銃より弾道性能が良かったわけではありません。
 が、もしこの13.2mm機銃が、初めから20mmの代わりに零戦の主翼にも二門、搭載されていたら、どうなっていたでしょうか?劇的な威力改善にはならないでしょうが、CAP機の対SBD阻止戦闘では、違った結果を出したかもしれません。これは、決して技術的に不可能ではありませんでした。やはり、あり得た選択のひとつなのです。
 またも紙上実験ですが、海軍は、陸軍の航空用12.7mm機銃(ホ-103)を利用することも、できたでしょう。
 陸軍は米国のブロウニングの12.7mm機銃を、海軍より早く忠実にコピーすることに成功していました。ただしその際、弾薬については、支那事変中からまとまった数が輸入されていた航空用ブレダ12.7mm機銃の実包を、そのまま使える物にしました。これが、陸軍の一式戦「隼」の乙型以降に機首に、1~2門搭載されました。
 残念ながら、良好な状態で残っている実物資料が、日本には案外少ないために、この機銃「ホ-103」が、米軍の12.7mmと比べて威力の差が具体的にどのようであったかについては、まだまだ分らないことだらけです。
 第三陸軍航空技術研究所が戦後、進駐米軍に提出した資料によると、同銃が発射した「一式普通弾」は、実包の全重が86.0g、弾丸は35gといわれています。
 そして、昭和17年の下志津陸軍飛行学校の調べた資料によれば、ヴィッカーズの12.7mm固定機関銃の発射する弾丸は35gといわれております。
 さらに防研にある、片桐少佐という人の昭和18年度に書かれたものによれば、「ホ-103」(固定/旋回重さが81gという(同料では、ブラウニングは52g、ヴィッカーズ12.7mm旋回機銃)が発射する弾丸は、重さが81gという(同資料では、ブラウニングは52g、ヴィッカース12.7mmは36gとしています)。
 ところが、1950年に頃に米軍が編集した「JAPANESE EXPLOSIVE ORDNANCE」という資料には、この日本陸軍の12.7ミリ弾は「イタリアの弾薬をコピーしたもの」と明記しています。弾薬に充填された諸薬の量は書いていないのですが、弾丸の重さについては詳しい調査がなされていて、決定版と見なせられます。 
 それによれば、一式曳火徹甲弾で34.4グラム、イタリア・オリジナルの徹甲弾で38.5グラム、炸裂焼夷弾で38.3グラム、国産の炸裂焼夷弾で38.3Gグラム、信管無し(つまり「マ弾」だろう)で32,9グラムという。
 どうしてブラウニングのキャリバー50の丸ごとコピーではなく、イタリア規格の弾薬との組み合わせにしたのかの理由は、それを説明した資料を一切見ていないので憶測するしかありません。おそらくは、この軽量弾薬の方が、日本の素材で作った銃身を磨耗させる度合いがより少なかったために、選考されたのではないでしょうか。
 「隼」や「鍾馗」の12.7ミリ機銃の弾道性についての実測データがないのは、まことに残念です。
 なお、陸軍機の機首の12,7ミリ機銃は、発砲の際の煙で視界が遮られて不評だったといいます。が、米陸軍のP-38などは、発砲すると機首全体が煙ですっぽり隠れたといわれるぐらいでした。兵器システムの好/不評は、結局パイロットがその実戦場での威力をどのくらい買っていたか、によって分かれるでしょう。
※画像2がエリコン20mミリ機銃。画像3がホー103、12.7ミリ機銃。

コメント

2012年
10月15日
00:58

坂井さんは「弾数は力」という考え方だったようですね。米軍機が主翼前縁から盛大に機銃を発射する様子を見て羨ましかった……という証言を残していますし。

当たれば大きい20ミリか、それとも比較的コンパクトであるが故に弾数を多く携行でき、銃自体も多く機体にも装備できるものであるか……。
撃てる弾の量が多くなれば、それだけ当たる確率も当たりますし、多く当たれば1発ごとの威力は小さくとも損傷の度合いは大きくなる。悩ましい選択です。

20ミリの「ションベン弾」は、特に短銃身の一号銃(零戦二二型まで)が顕著だったようで、長銃身の二号銃(零戦二二型甲以降)では弾薬の改良もあり、直進性が高まっていたようです。
パイロットによっては20ミリの方に信頼を置いていたケースもあり、武装というのは使い方次第というのが実際のところなんでしょうね。

2012年
10月15日
06:46

2: U96

>咲村珠樹さん
二号銃では携行弾数も増えていますからね。紫電改が20mm4丁を選択したのもうなづけるものです…詳細な解説、ありがとうございました!

2012年
10月15日
19:07

3: 退会済ユーザー

アメさんの航空機の武装量が異常ともいえますよね。

2012年
10月15日
19:28

4: U96

>フロッガーさん
イギリス軍のホーカーハリケーンの7.7mmm12丁もすごいと思います!